みんなのいえ
 久しぶりに映画館で映画を観た。映画館の大画面と何チャンネルだかわからないがステレオ感豊かな音声を除けば、自宅のテレビでも気軽に楽しめさうな内容だつたやうに思ふ。怒りつぽかつたり頑固だつたりで対立も多いし、自動車事故で怪我をしたり物が壊されることもある。でも、自動車が壊れるやうな派手さはないし、人が殺されることもない。だから映像や音声で突然驚かされるやうなことがないのだ。「この先どうなることやら」といつた心配もあるけれど、それはこの映画の重要な要素だし、絶望的になるやうなことにはもちろんならない。ある意味で、‘からだに優しい映画’なんてこともいへるかもしれない。
 脚本と監督は三谷幸喜。『ラヂオの時間』は観てゐないので私としては彼の監督作品は初体験になる。台本はすこぶるわかりやすいと思つた。喜劇といふことで単純さが大切なのかもしれないが、ところどころで「これは台詞にしなくても観客に示唆できるやうな表現も考へられたのでは?」などとつまらぬ感想を抱いてしまつた。何といふか、若干説明しすぎかな、といつた印象だ。しかし、職人とアーティストとの存在意義や立場の違ひとか、仕事に対する責任などについて脚本家役の田中直樹に語らせたところなど、なかなか惹き付けられるものがあつた。三谷が小説家ではなく脚本家を選んだ理由のひとつが「いろいろな制約にしばられたうへでの表現にやりがひを感じる」といふことだつたと以前聞いたが、そんな職人気質を讃へたい意欲がみなぎつてゐたと思ふ。また、唐沢寿明に語らせた「古い物は古いから良いのではなく使ひやすいから良いのだ。壊れたら修理して使へばよい」との主張は、使ひ捨て感覚が相変はらず根強い現代にあつては特に意義深かつたと思ふ。
 それにしても、よく家が建つたものだ。頑固一徹の職人である依頼人の父は、通常ならとても引き受けられない仕事を「娘のために」引き受けることにする。そんな陰の心情を知つてか知らぬか、その依頼人である若夫婦は、意見が対立する設計者と施工者の間で板挟みになりながら、妥協と気配りで何とか実現させてしまふ。設計者と施工者の間に育まれる‘良い話’も建築実現の大きな要因だとは思ふが、やはり依頼人がなければ仕事は動かないのだ。途中、最終的な決定を迫られる依頼人の姿があるが、これは、建て売り購買ではない注文建築、また新築でなくとも増改築や内装だけでも同じだと思ふが、さうした発注者となる人にとつて、「工事の仕様決定は(話がまとまらないときは)依頼人が最終決断を下す」といふことを再認識させることになるだらう。
 役者たちは、映画は初めてといふ八木亜希子や田中直樹もしつかり仕上がつてゐたし、唐沢寿明も一貫した演技に違和感がなかつた(もしかして地なのか?)。が、なかでも田中邦衛は特筆に値すると思つた。彼らしさを損なふことなく、いや、彼らしさがとてもよく活かされてゐて存分に楽しめた。
 音楽は服部隆之。家の設計者側のアメリカ的でもなければ家の施工者側の日本的でもない。そんな、偏りのないさまざまな音楽が聞こえてきたのだが、どれも作曲者が楽しんでスコアを書いてゐるやうな感じが伝はつてきた。
 と、久しぶりの映画にいろいろと感じるところがあつたわけだけれど、特に印象に残つたのは、家が完成間近に施工責任者の提案で設計者と依頼人との3者が建築記念物を天井裏に置くところだ。施工者は墨壺、設計者はペンを選んだが、依頼人が咄嗟に選んだ物に、豊かな夫婦愛が感じられて温かな気持ちになつた。そしてまた、それは夫だけでなく夫婦で建てた家、といふことも同時に象徴してゐたのであらう。三谷幸喜と小林聡美も、きつと仲睦まじい夫婦なんだらうなあ、とも思つた。
(2001年6月18日、日劇東宝)

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このページは長谷部 宏行(HASEBE, Hiroyuki)からの発信です
2017年4月9日版
(内容については実質的には2001年6月19日版)