大湯環状列石:D竪穴住居は快適であったのか? |
△恙無きや 参照 「ツツガムシ(恙虫)とは」 わが国では古来、手紙の末文に「恙無きや」と云う文言(と云うような言葉)を常套 的に用い、何の違和感もない。即ち「恙無きや」と云う文言は、先方の健康を気遣う言 葉として、今現在も広く用いられ、遠方に住まわれている方へ送る手紙の末文として定 着している。 「恙無きや」のことで思い出されるのは、次の歴史的事実である。 第二回遣隋使(607年)がわが国から派遣されたのは、煬帝の治世(中国隋の時代) である。この折に聖徳太子が煬帝に宛てた国書の書き出しに、 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」 とあることは、あまりにも有名である(ただしわが国の文献には見えず、『隋書』に記 述されていると云う)。 煬帝はこの文面に激怒したが、やがて家臣をわが国へ遣わした。遣隋使は、煬帝在位 中に第2回も含めて計4回派遣されている。 因みに、遣隋使(けんずいし)とは、推古天皇のときに隋への遣使のことを云う。推 古天皇8年(600)〜26年(618)の18年間に約5回以上派遣されている。 倭の五王による南朝への奉献以来約1世紀を経て再開された遣隋使の目的は、東アジ アの中心国・先進国である隋の文化の摂取もあったが、何よりも日本国内での影響力を 維持するためには、隋との国交が必要であった。つまり、隋の承認のもとにわが国を統 治することであったとされる。 このように「恙」とは病気などの災難とか、わずらいのことであるが、そのことを象 徴するものが「ツツガムシ病」であった。 何故なら、ツツガムシ病は古来、わが国を含むアジア各地に広く発生し、最も身近で、 最も厄介な病気であったのである。 したがって、人々は、じかに土の上に座ったり、寝たりしないで、土の上に敷物を敷 いたり、やがて高床式と云うか、板の間と云うか、ツツガムシの生育している土と、人 間とが接触しないようにと、わが国では木造住宅にみるような建築様式が定着した。 大湯環状列石に係わった人々は、竪穴住居の中で、どのような「寝床」を設えて暮ら していたのであろうか。 (H18.03.11)
参照 「竪穴式住居(竪穴住居)とは」 参照 「復元:天戸森遺跡」 |
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