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宗教を読む / 人は神になれるか

◆プロテストの本音
 モノの「本質の機能(正の働き)」が制限されるときは、その支障となる障害物を 排除しなければならない。
 例えば、
野山に生える茸の生長を妨げる(覆う)落葉
健康を害する病い
視線を遮る
発言の邪魔になるヤジ
布教の自由を阻害する悪法
民意を反映しない専制政治
 − これらのような障害・非効率・歪曲などなど − 
このような、モノ本来の機能を非正常化する現象や障害物に対して、 これを排斥除去しようとする行動をプロテストと云うことが出来よう。 しかしてプロテスト行動は、モノ本来に備わっている機能でもある。 私共は、悪玉菌が発生して病気になったときは、善玉菌の働きで病気を駆逐するではないか……。
 キリスト教のプロテスタントは、聖職者層が組織化されて教会が巨大化し過ぎて、 本来あるべきとされる神(啓示)→戒律(教義教典)→聖職者→人々 の構図が有効に機能しなくなったことに対するプロテスト(挑戦)として起こったものであろう。
 
 しかし、ここで考えたいことは、キリスト教における戒律相互間の矛盾、否、 人間の本性を阻害する罪人と云う概念のことについてである。
 カインは、神に罪人の烙印を押されたが、その見返りとして、 神にしるしをつけてもらったので、 (収支トントンとなり、とりあえず)生き延びることが出来た。
 〔土地取得伝承の項参照〕
 
 (想像を逞しくすれば)罪人ユダヤ人は、その見返りとして、 (ユダヤ人たる親たち)自らが自分の嬰児に割礼を施すのも、 しるしをつけることの一手法なのであろう。
 ※割礼(かつれい)とは、 「〔circumcision〕陰茎包皮または小陰核を切開したり、その一部を除去したりする習俗。 古代より多くの民族の間で行われてきた。今日でも世界的に広く行われている。 ユダヤ教では、神との契約のしるしとして生後八日目の男児に対して行う。」(goo 辞書)
 
 即ち、この割礼をすること(しるしをつけること)で、罪人しるしは、 収支トントンとなって、ユダヤ人としての人生を営むことが出来るのであろう。  
 ところで、キリスト教徒は神の子イエス・キリストの贖罪によって、理屈の上では、 一応はとして全うな人生を営むことが出来る訳であるが、 依然として神の子の存在は、人々の上に重くのしかかっている。 更に信者が広汎に増えれば増えるほど、 神の子の存在は普く重くのしかかることになる反面、 神のしるしは、広く分散されて軽微〜希薄になってくるのは必然的である。 カイン一人だけであった筈のしるしは、 何億何十億もの人々にもつけなければならないからである。 したがって、神の子の重圧に反発する形で、当然にして、 正の行動としてプロテストが活動し始めるのである。 人間が、正の成長をし続けている限りにおいては、 本来的にはプロテストは有名無実の存在なのであるが……。
 
 (更に想像を逞しくするならば)キリスト教におけるプロテスト行動とは、 聖書に謳う神の国天国での甘い愛の世界は、人の心身の成長には 決して有効(正常・合理的)に働くものでないのでは……。 換言すれば、プロテスト行動とは、人は、何もしないで、遊んでばかりいて、何も考えないで…… 他力本願的生活に対する挑戦なのではないだろうか。
 一方では、この挑戦そのものが人類の発展に寄与するのであるとの見方もあるようであるが − 。
 しかし、人生は一度のみ、自己を善と信じて生きるのか、 自己を否定して(罪人と認識して)神のみを信じて生きるのか……。
 
* 既成概念への挑戦
 人はその成長過程において、必然的に既成概念に対して挑戦 −  反抗心・冒険心・探究心などを経験体験して成人してゆく。 脱皮や裏切りをも繰り返して − 、やがては嫉妬心へと成就する。
 〔私の神道→更新の項参照〕
 
 嫉妬は、神の独占的権利であった筈である。 と云うことは、嫉妬とは聖書の神の本質そのものである、  − 即ち、これがプロテストの本音とみるがいかがでしょうか。
 〔「神」は気まぐれ?の項参照〕
 
 神=人の構図である。

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