◆存在感 赤子は泣く、成人は悔しさに泣く、また人が逝くを泣く。 これらの「泣く」行為は、一義的には、嘆き悲しむことを(感情的に)表現することであるが、 いま一度考えてみよう。 赤子が泣くとは、時処位の中に、 時処位の構成員として新たに加わったことに対する自己主張であると思う。 泣くことで、自己の存在を認めてもらうのである。 悔しさに泣くとは、順調に事が推移すれば、時処位の中で、自己の存在が次の段階へ昇格し、 時処位が更新されることになるのであるが、それを果たせなかった悔しさで泣くのがある。 即ち、時処位は絶えず成長し続け、新旧が入れ替わっていく構図なのである。 逝くを悲しむとは、時処位の一部が欠けて失われたことへの警鐘と考えられよう。 さて、聖書によると、 神は言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。 人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。……」と。 〔聖書の起源/アブラハムの物語の項参照〕 成長過程にある青少年が時として暴れたり奇異な行動を執ることがある。 これは、自分の若い「力」(運動力行動力)と、 それを行使すべき場が時処位の中に確保されていない、 と云うジレンマ〜焦り→「知能」との不均衡からくるものであろう。 即ち、時処位の中で横行する大人たちの破廉恥への抗議であろう。 「子は親の背中を見て育つ」と。 〔教育の項参照〕 ※「時処位」については〔構図の項参照〕 |
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