GLN 宗教を読む

聖書の起源

◆つくられたイエス像
 W・ヴレーデ(ドイツの宗教史学派・ブレスラウ大学、1859〜1906)についで、 この間題の強力な推進者となったJ・ヴェルハウゼン(同ゲッティンゲン大学、1844〜1918)は、 一九〇五年から一一年にかけて発表した『マタイ・マルコ・ルカ注解』および 『三福音書緒論』において、ヴレーデの到達した結論を、 さらに綿密な分析によって再確認したばかりでなく、 史的イエスの復原というテーマに、終止符をうってしまった。彼は、こういう。
「最古の伝承は、そのほとんどすべてが、イエスの言葉の断片からなりたっていた。それは、 文字通りバラバラの断片的な言葉の集録にすぎず、それ自体では、けっして、 まとまりをもった物語を、かたちづくるものではなかった。 しかしやがて、これらの断片が集成され、イエスの生涯の物語として、 まとめられることになったとき、はじめは、つながりを持たなかった伝承群の間に、 いく本かの糸が通され、それぞれ完結した物語が生みだされていった。
 
 たしかに、マルコ伝承は、イエスの語録集(イエスの言葉の集録、ロギアとよばれている) よりも古く、しかもよりたしかな伝承にもとづいてはいる。 しかし、結局のところ、福音書の伝えるイエス伝は、このようにして編集された、 いわば虚構なのであるから、史的イエスの史料としては、第二史料たらざるをえない。 ロギアについても、事情は同様である。 当時、口承文学が、次々に新しいイエスの言葉を創作しっつあった段階において、 その集成であるロギアが、多分に虚構的傾向を有していることは、どうにも否定のしようがない。 結局これも、第二史料的である……」
 ヴレーデもヴュルハウゼンも、福音書伝承の断片は、 それが生みだされた歴史的状況を究明するための、第一史料ではあるが、 それが報告しているイエスの生涯の歴史的記録としては、第二史料たるにとどまる、とみたのである。
「イエスの残した精神は、たしかに、エルサレム教団の伝承の中に息づいている。 けれども、われわれは、教団の中に支配したイエス像から、ただちにイエス自身の歴史的姿を、 ひきだすことは許されない」(ヴュルハウゼン)。
 要するに、福音書をとおして知ることができるのは、史的イエスの実像ではなく、 原始教団のつくりだした虚像だということになる。

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