GLN 宗教を読む

聖書の起源

◆新約聖書の虚と実 − 福音書の原型
* なぜ人間イエスがキリストになったか
 新約聖書には、ひとつの大きな謎がある。 それは、ナザレびとイエスが、いかにしてキリストとなったか。 人間イエスが、いかにして、救い主・キリストになったか、という謎である。 なぜにこのことが謎なのかと言えば、歴史家の眼からすると、 イエスはまったくのところユダヤ教の預言者、 あるいはしばしば奇跡や病気なおしをおこなうユダヤの教師(ラビ)として、 人々の前に姿をあらわし、十字架の上に死んでいったにすぎないからである。
 彼は、明らかにひとりの預言者であり、しばしば奇跡をおこなうユダヤの教師でしかなかった。 彼が、群衆を前にして語った教えは、当時のユダヤ預言者たちの枠をこえるものではなかった。 彼はただ、神の国について、天の父なる神について語ったにすぎない。 だから彼が、十字架の上に、どれほど悲惨な最後をとげたとしても、 それすら、ひとりの人間の崇高ではあるが、 そのゆえにかえって悲劇的な死以外の何ものでもなかった。 歴史家の眼は、こうイエスをとらえる。
 
 はたして、事実がそのとおりだとすると、新約聖書記者たちの、 ほとんど必死に近い神の子・キリストの告白と証言は、まったくもって謎につつまれてしまう。
 イエスの使命は、天の父なる神について、来たるべき神の国について、 人々に告知するという、ただそのことだけにあったはずだ。 それが逆に、イエス自身が、告知されるものとなった。 告知するものから告知されるものへのこの転倒はなぜに起こったのであろうか。 なぜに原始教団は、イエスの語ったことがらにではなく、 イエスが語ったという事実に被らの関心をこらしたのか。 なぜにヨハネやパウロは、イエスの語った告知の内容を大胆に無視してまで、 イエスの告知の事実だけに、全関心を集中したのか。
 これこそ新約聖書が、その背後に秘めているまことに不思議な謎ではないか。
 
* 祭りのキリスト
 福音書にうつしだされたイエスの生涯は、けっして完結的な物語でもなければ、 ナザレのイエスの復原を意図する、福音書記者の歴史的関心によって、描きだされたものでもない。 福音書の原型は、イエスの言葉に、決断をもってこたえた最初の信仰共同体の、 キリスト告白を中心に結集された。
 われわれは、その原初の様式を、共同体の祭りにみることができる。 共同体は、キリストの祭りを中心に結集し、祭りにおいて、 キリストの生涯を彷彿と想起した。福音書は、祭りにおいて朗読される祭文だったのである。
 マルコの伝えるイエスの言葉は、使徒行伝にみられる二、三の説教体の伝承と内容的に一致する。 次の引用は、ペテロの説教の一節である。
「イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。 あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、 あなたがたの中で行なわれた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、 神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。 このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、 あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。 神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである」 (使徒行伝二・二二−二四)。
 
 おそらく祭りは、説教者が語るイエスの受難と死、 そして復活の証言によって頂点に達し、会衆の心に以前にもまさる追憶と、 新たな決意を高めていったに相違ない。
 
* 死から復活への食事
 イエスは、自らを過越の犠牲、過越の小羊として示すことによって、 イスラエルの過去における、すべての過越の小羊を、完成したのである (J・エレミアス『イエスの晩餐の言葉』一九三五 参照)。
 原始教会は、主の聖餐の場において、 使徒の朗読するイエスの別離の言葉に耳を傾け、十字架のイエスに、屠りの小羊そのものをみた。 イエスから流れでるは、すべてのわざわいから人々を隔離する。 は契約のしるしなのだ。 キリスト共同体は、キリストのによる、キリストのからだの共同体であった。 このからだが、復活のからだであることによって、 キリスト共同体は、古いイスラエル共同体から訣別する。

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