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聖書の起源

◆治癒神イエスの勝利
 アスクレピオス神(治癒神の項参照)は、 単に加持祈祷だけに頼っていたオリンポス神々との競合に打ち勝った。 即ち、ポリスからポリスへ病人を求めて「たずね歩く神」であり、 求められるよりも、彼自身が求める神であった。
 そして、新しい外科的医術を採用しながら、驚異と不思議の治癒活動をしたのではと考えられている。
 
* イエスが用いた医術
 治癒神イエスにかかわる驚異の治癒物語を、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書。 ヨハネ福音書は除く)から、平行記事も含めて拾いあげていくと、全部で五十話ある。 内訳はマタイに十八話、マルコに十五話、ルカに十七話ということになる。
 これは、エピダウロス碑文の七十話とくらべて、数の上では劣りはするが、 その定型的様式の完成度、物語に含まれるヴァリエーションの多彩さ、 イエスの驚異的な治癒力の表現の卓抜さ、さらに民衆のリアルな心理描写の巧妙さなど、 文学として、その量と質において、はるかにエピダウロスの治癒物語を凌駕するようにおもわれる。
 先の五十の治癒物語に、福音書のいたるところに、断片的な挿話として織りこまれている、 四十六の癒しの話、さらにイエスの弟子たちによる十九の癒しの奇跡を合算すると、延べにし て百十五話の治癒物語が、福音書には記録されていることになる。
 エピダウロス碑文によると、悪霊憑き、ライ病、死人の蘇りはほとんど皆無である。 福音書の場合には、主たる疾病の筆頭にあげられる精神障害やライ、死人の蘇生など、 目ぼしい病気があるが、エビダウロスにはないのである。
 この大きな相違は、どうしても見逃すわけにはいかない。 アスクレピオスの癒しの奇跡は、外科的疾患の治療に、その本領を発揮した。 治癒神イエスの場合は、明白に「狂気」(「神聖病」を含む)にむかって集中している。 加えて、ライ病患者や死者との接触がある。 イエスは正面から、タブー侵犯の危険に直面していたということになる。
 一方、アスクレピオスにはそれがない。エピダウロスの驚異の治癒には、 その大胆で、劇的効果を発揮する外科的医術の使用を示唆するものが、 含まれているにもかかわらず、宗教的な禁忌にふれる病気については、一例の報告もそこにはない。 アスクレピオスの超能力は、明白にタブーの内側に制限されていたのである。
 
* イエスの穿孔術
 イエスがことさら、目新しい医術を駆使した痕跡は、福音書には見当らない。 ヒッポグラテスの大脳生理や、大胆な大脳外科の穿孔術に匹敵する、 いかなる手だてがイエスにはあったか。
 手だてはなかった。しかし治癒神イエスは、「汚れた者」や「悪霊に憑かれた者」 や「罪人」に背負わされていたマイナスの価値を、 プラスにむかって一挙に逆転させる驚異の力をもっていた。 社会の最下層に、人々から差別され、生きながら死骸のように拒否されていた人々を、 一挙にプラスの価値にむかって転回させさせる>をもっていた。 ヒッポグラテスのもっとも嫌った祈祷師たちのように、 「病人を汚れた者や罪人のように扱う」ことを、イエスは明確に拒絶する。 イエスはいう「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたの は、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ二・一七)。
 
 治癒神イエスの超能力は、こうした「言葉」の中に、その驚異の秘密がなかったか。 こうした「言葉」によって、イエスは自由に、大胆に、禁忌の中心に侵入することができた。 たしかに治癒神イエスには、医術を駆使した痕跡はない。 しかし、こうした「言葉」の駆使によって、イエスは正面からタブーに挑戦し、 激烈な競合と葛藤の末に、圧倒的な優位を誇った治癒神アスクレピオスを、 遂に駆逐することに成功したのである。 イエスにとって、「言葉」こそは、まさにヒッポクラテスの穿孔術であった。

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