◆ヨハネからイエスへ こうしたヨハネとクムラン共同体との関連の想定は、イエスの出現が、 ヨハネによって準備されたという、福音書記者マルコの証言と重なって、 一層、重要性を増幅する。 マルコによると、イエスは、「ガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、 ヨハネから洗礼をうけ」(マルコ一・九)、ヨハネが捕えられた後、 ガリラヤを起点に、最初の宣教を開始した。 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。 これがイエスの宣教の第一声であった。紀元二七年のことである。 イエスの声には、悔い改めを求めて荒野に呼ばわる預言者ヨハネの声の残響がある。 こうみてくると、ユダヤ教からキリスト教への複雑な移行過程は、 ひとつの図式によって示されることになる。 それは後期ユダヤ教→エッセネ派→クムラン教団→洗礼派のヨハネへと、 その輪を小さくし、ついに、ナザレのイエスに到達する図式である。 「死海文書」の発見が、謎につつまれたユダヤ教からキリスト教への移行の歴史の空自を埋める、 いかに大きな事件であったかがわかるだろう。 ところで、この図式には致命的弱点がひとつある。 それは、最後の鍵をにぎるイエスとヨハネの関係が、実のところきわめて不確かで、 あいまいなままにとどまっているからである。 たしかにイエスが、ヨハネ集団にいたことは、史実とみて間違いないし、ヨハネの逮捕後、 イエスがただちに着手した宣教活動が、このヨハネ集団と地理的に接近した地点で開始されたことも、 疑い得ない事実であろう。ここまでは問題はない。 しかしそれは、マルコの証言によると、イエスの活動の出発点においてそうであったというだけで、 その後のかかわりはわからない。むしろイエスは、洗礼派ヨハネの集団から、 その後は完全に絶縁していた公算が強い。 福音書にうつしだされたその彼のイエスに、ヨハネの似姿を求めることはむずかしい。 ヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰には皮の帯をしめ、 いなごと野蜜を食物として荒野に叫んでいた。 彼は罪のゆるしの、バプテスマを宣べ伝えていたのである。 イエスはどうであったか。イエスの宣教の第一声には、たしかに、 ヨハネの叫びの響きがある。しかし、イエスはヨハネとちがって荒野から町へむかった。 そこには、貧しい多くの民衆、悪霊にとりつかれたもの、ライ病人、足なえ、罪ある女……がいた。 イエスはいう。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、 義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ二・一七)。 イエスは、社会の片すみのこうした貧しい民衆と交わり、彼らと食事を共にし、 彼らに祝福をあたえることを、むしろのぞんでいたのである。イエスの弟子たちも、また同様であった。 * 洗礼 キリスト教徒となるために教会が執行する儀式。全身を水にひたすか、または頭部に水を注ぐことによって罪を洗い清め、神の子として新しい生命を与えられるあかしとする。バプテスマ。 |
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