◆悪霊を払うイエス しかし、矛盾は次第に拡大されていく。 イエスの奇跡の魔術的性格は、明らかに旧約聖書からの逸脱を示唆していたからである。 それはとくに、悪霊払いの物語において顕著である。 次の物語は、「ゲラサの悪霊」の癒しの話である。 「悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。 彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。 すると突然、彼らは叫んで言った。 『神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。 まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのです』。 さて、そこからはるか離れたところに、おびただしい豚の群れが飼ってあった。 悪霊どもはイエスに願って言った、 『もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい』。 そこで、イエスが『行け』と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。 すると、その群れ全体が、がけから梅へなだれを打って駆け下り、 水の中で死んでしまった」(マタイ八・二八−三二、他にマルコとルカに平行記事がある)。 福音書には、こうした話が随所にある。 イエスの言葉は、あたかも魔法の呪文のように、その不思議な威力を発揮する。 イエスにみられるこうした悪霊払いの物語は、 福音書だけではなくラビ文学にも顕著にみられる。 この注目すべき一致は、どこにその理由があるのか。 これについてドイツの神学者のべレルスは、ラビとイエスが、 悪霊払いの癒しの奇跡で出会うのは、 当時、悪霊憑きの治癒物語が定型的様式をそなえた文学として、 広く民衆に流布していた結果による。 福音書もラビ文学も、それを利用したにすぎなかった。 それが両者の一致の理由であるという。 ベレルスは、特定の状況における奇跡物語伝承の流行を指摘したのである。 ここで問題は振り出しにもどる。 というのは、ベレルスの主張には、ラビとイエスをまきこんだ奇跡の、 特殊な状況の指摘が含まれていたからである。 それこそフィービッヒが、最初に指摘した特異な状況、 「奇跡物語が日常的であるような状況」にほかならない。 論争は一回転した。 その後の論議の動向は、ディベリクスやブルトマンの手にゆだねられることになる。 |
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