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聖書の起源

◆イエスの奇跡をどこに位置づけるか
 フィーピッヒは、その著『新約時代のユダヤ奇跡物語』(一九一一)の中で、 先の疑問にこう答えた。
「イエス時代のエルサレム、およびガリラヤは、奇跡にまつわる不思議な話が、 あたかも日常的であるかのような、すこぶる特異な状況におかれていた。 たとえばタルムード(ユダヤ教律法学者の口伝・解説集。四〜六世紀) に登場するイエス時代のラビ(ユダヤの教師)たちは、先に述べた旧約的背景からすると、 まるで別人のように、魔法や呪術に寛容であった。彼らは、好んで奇跡を起こした。 それは魔術師のように大胆で、あるラビは呪文を唱えて雨をよんだり、嵐をしずめたり、 時には病人を癒し、また死者に語りかけて、蘇らせることすら不可能ではない。
 
 一方、ユダヤの民衆は、こうしたラビたちの不思議な力を喝采し、 奇跡にまつわる伝説を、ラビたちの生涯の事蹟に織りこんで、物語を作成した。 これがタルムードに記録されたラビの奇跡話である。 福音書にしるされたおびただしいイエスの治癒活動も、これと事情は同様である。 新約聖書は、イエスの驚異の奇跡を語ることによって、まさに、その起源を語っているのである」、と。
 
 さて、どのようなことになるか。福音書記者たちの奇妙な沈黙、 それはユダヤのラビたちが、彼ら自身魔法の使用者であったという、事実から説明されることになる。 彼らは、彼ら自身が違反しているゆえに、 イエスにむかって容赦のない告発状をつきつけることができなかった。 要するにイエスの違反は、相殺されていたというのである。
 このフィーピッヒの見解にたいし、シュラッターは、『シナゴグにおける奇跡』 (一九一二)において、次のように反論する。 ユダヤのラビたちが、イエスと同様、彼らの会堂において驚異の奇跡を、 おこなっていた事実については、さしあたり疑問はない。 しかし彼らはそれを、フィーピッヒのいうように、魔法としておこなっていたのでは断じてない。
 ラビたちにとって、魔法や呪術が違法であるのは、 旧約の律法に照らして疑問の余地がなかったからである。 ラビたちは奇跡によって、異端を演技したのではなく、旧約聖書にしるされた神の不思議な業が、 現実に起こり得ることを、人々の前に証明しようとしたのである。 イエスの行為も、同様であると。
 このシュラッターの見解には、ボルンホイザー、クラウスナー、シュミットなど多数の同調者がいる。 彼らはいずれも、驚異の奇跡を旧約聖書における神の不思議の延長としてとらえ、 ラビやイエスが、魔術や呪文によって、自由に奇跡をおこない得たとする解釈を、 遮断しようとするのである。 イエスの奇跡は、ここでは、正統ユダヤの奇跡理解の枠内に閉じこめられたままである。

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