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聖書の起源

◆イエスの場合
 ところで、ここから問題が生ずる。 というのは、このような旧約的背景からすると、福音書に描かれたイエスの驚異の病気なおしは、 その不可思議な呪文や魔法の使用は言わずもがな、全体として、 ユダヤの最高法院にたいする、無謀な挑戦であったとしか言いようがない。 少なくとも、異端の誹りは免がれがたいように見える。 加えてナザレのイエスには、ライ病人との接触という重大な禁忌の侵犯が多々ある。 イエスは、極刑を承知で、あえて権力に戦闘を挑んだのであろうか。
 
 ところが奇妙なことに、福音書には、イエスの奇跡の癒しに関する告発がない。一例もないのである。 イエスの癒しが、どうしてユダヤのパリサイびとや律法学者の監視の眼を逃れることができたか。 なぜにイエスの癒しは、彼らの告発の対象とはならなかったか。 旧約のそれに照らして、ここには不可解な疑問がある。 もっとも、論争物語の中には、そうした告発の例がないでもない。
 たとえば、安息日(あんそくび)の癒し(マタイ一二・九−一四、マルコ三・一−六、 ルカ一三・一〇−一七)や中風の者の癒し(マタイ九・一−八)がそれである。 これらの例では、イエスは確かに告発されている。 ところが仔細にみると、いずれの場合も、癒しの行為そのものは、正確に告発から除外されている。 安息日の癒しの物語では、ユダヤ教の戒律である安息日の労働の禁止にたいする、 イエスの違反が問題だったのであり、癒しの行為自体には咎めがなかった。 中風の者の癒しの場合も同様である。
 律法学者たちの告発は、イエスの癒しそのものにではなく、 癒しにさいしてイエスの語った言葉にむかって用意された。 そこに含まれるとく神性(神の神聖をけがすこと)が問題だったからである。 なぜに癒しの奇跡が、その呪文や魔法の使用とともに、論争の対象とはならなかったか。 なぜに療患者との接触が、禁忌の侵犯とはならなかったか。
 
 『イエスの奇跡』(一九六五)の著者、ヴァン・デア・ルースによると、 このひとつの疑問から、実に長い神学上の論争が、繰りかえされてきたという。 その最初の口火を切ったのが、フィーピッヒとシュラッターの論争である。

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