GLN 宗教を読む

聖書の起源

◆古代イスラエルの治癒神 − レビ記から
 古代社会において、病気とその治療に関する知識が、全体として、 呪術 − 宗教体系の中に包含されていたことについては、 あらためて指摘するまでもない。 人間の死も含めて、病気はことごとく神に起因し、 その限りすべての病気は、多少とも、人間の犯した罪にたいする神的懲罰とみられていた。 したがって、病気の治療には宗教儀礼が関与する。 このようにして、医療は祭司の手にゆだねられ、 医術の行使は、宗教の本質的な呪術的機能と直結してきたのである。
 古代イスラエルの場合も、事情は同様であった。 旧約聖書ヨブ記に描かれた苦難物語の背後には、 病気を神の刑罰とみる呪術 − 宗教的観念が横たわっている。 病気は、犯した罪にたいするまぎれのない神の懲罰のしるしであった。 ヨブの苦難は、自らの義の証のために、自己の道徳的高潔にかけて、 こうした烙印の強請と戦わねばならなかったところにある。 病気との対決を、自己の道徳的行為の完成によって成就しなければならなかった ヨブの状況に含まれる矛盾は、どうにも否定しようがない。  こうしたヨブの場合も含めて、旧約聖書には、忌むべきもろもろの病気にたいする、 厳格な戒律が定められていた。 とくに、治療の手だてのない恐るべき病気については、 不可触の禁忌(きんき)が適用されていた。 ライ病は、その筆頭であった。
 
 旧約聖書のレビ記一三章、一四章は、その詳細な病態生理の記録である。 そこには、診断に必要な症候群が、細目にわたって列挙され、 汚れた者と清い者とを識別するための規準が、網羅されている。 発病が確認されると、患者は往来に出て、自ら大声で汚れた者であることを宣言し、 その後に、汚れた者だけの住まう宿営に住むために、 町を退去しなけれはならなかった(レビ記一三・四五−四六)。 肉体の崩壊の以前に、社会的な死の制裁に耐えねはならなかったのである。 患者は、死骸のように避けられた。
 
 古代イスラエルは、こうした一連の医療行為 − 検診、診断、治療、隔離、 社会復帰の許可の権限を、すべてユダヤの最高法院をとおして、 集中的に祭司の手にゆだねていた。祭司は、臨床医のように、この権限を行使した。 病人をかくまったり、病気を隠したりする場合、祭司は、最高法院にかわって、 制裁権を行使することができた。
 一方、こうした祭司の職能は、厳密に魔術師や呪術師のそれから区別されていた。 たとえば、出エジプト記二二章一八節「魔法使の女は、これを生かしておいてはならない」や、 レビ記二〇章二七節の「男または女で、口寄せ、または占いをする者は、 必ず殺されねばならない。すなわち、石で撃ち殺さなければならない……」など、 ここには、魔術の使用者にたいする極刑の適用が、明文化されている。 治癒権の行使にかかわる、正統と異端の規定であった。 申命記では、「占いをする者、卜者、易者、魔法使、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、 死人に問うことをする者」(申命記一八・一〇−一一)など、 異端の範囲が一層細かく規定されている。
 こうした禁止が、はたしてどこまで厳格に守られていたか。それはよくわからない。 そもそも禁止命令が、こうした仕方で明文化されねばならなかったこと自体、 実は、さまざまな呪術や魔法が、不法に横行していた事実を裏書きしているともいえる。 違反者にたいする極刑の適用は、ユダヤの最高法院が、 その取り締りに手を焼いていた証拠であったかもしれない。
 
 注:ヨブ・ヨブ記
 旧約聖書中の一書。義人ヨブJobが罪なくして子・財産・健康を失うが、 絶望的苦悩のうちにあってなお神を求め、その信仰によってすべてが回復せられ神の祝福を受ける物語。

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