△古事記 中巻 大帯日子淤斯呂和気天皇(景行天皇)
 
〈倭は国のまほろば〉
 そこから出発されて、当芸野(たぎぬ)の辺りにお着きになったときに、仰せになる には、
「自分の心は、いつも空を飛んで行こうと思っているので、今、自分の足は歩けない。 当芸斯に(たぎしに、曲ってびっこ引くように)なってしまった」
と仰せになった。  故に、その地を名付けて当芸(たぎ)と云う。
 
 そこからほんの少しお出でになると、大層お疲れになるによって、杖をついて、そろ そろとお歩きになった。そこで、そこを名付けて杖衝坂と云う。
 尾津前(をつのさき)の一松(ひとつまつ、一本松)の許に着いたが、先にお食事を されたとき、そこに忘れてきた刀が、なくならずにそのままあった。
 そこで、御歌をお詠みになるには、
「尾張に ただに向へる
尾津の崎なる 一つ松あせを
一つ松 人にありせば
太刀はけましを きぬ着せましを
一つ松あせを」
 
 そこからお出でになって、三重村にお着きになったときに、また、
「自分の足は、三重の曲りのように、いたく疲れた」
と仰せになった。
 そこで、そこを名付けて三重と云う。
 そこからお進みになって、能煩野(のぼぬ)にお着きになったときに、国を偲んでお 歌いになるには、
「倭は 国のまほろば
たたなづく 青垣山
隠れる 倭しうるはし」
 
 また、お歌いになるには、
「命(いのち)の またけむ人は
たたみこも 平群(へぐり)の山の
熊白檮が葉を 髻華(うず)に插せ その子」
 この御歌は、思国(くにしぬび、望郷)の歌である。また、お歌いになるには、
「はしけやし 我家の方よ 雲居立ちくも」
 
 これは、片歌(かたうた)である。
 この時に、病気が急変されて危ない状態になった。  そこで、御歌を、
「嬢子(をとめ)の 床のべに
わが置きし 剣の太刀 その太刀はや」
と歌い終えて、すなわち、お亡くなりになった。
そこで、駅使(はゆまづかひ)を上らせられた。
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