△古事記 中巻 伊玖米入日子伊沙知天皇(垂仁天皇)
 
〈本牟智和気の御子〉
 さて、(本牟智和気の)御子をお連れして遊ばせる状は、尾張の相津にあった二股の 杉を、二股のまま小舟に作って、(大和へ)持ってきて倭の市師の池、軽の池に浮かべ て、御子を連れてお舟遊びをした。
 しかしこの御子は、髭が胸の前に及ぶまで(大人になるまで)、物を言わなかった。 そこで、空高く飛んでいく鵠(たづ、白鳥)の声を聞いて、始めて片言を言われた。
 そこで(天皇は)山辺の大鷹(おほたか、帝偏+鳥)を遣わせて、その鳥を捕まえ させた。
 そこで大鷹は、その鵠を追いかけ尋ねて、木国から播磨国に到着して、また追って因幡 国を越えて渡って、そこから丹波国、但馬国に到着して、東の方に追いかけて、近江国に 着いて、そこから三野(美濃)国に越え、尾張国から伝わって信濃国に追いかけ、ついに 高志(越)国で追いついて、和那美(わなみ)の水門に網を張り、その鳥を捕まえて(大 和国へ)持ち上って献上した。そこで、その水門を名付けて和那美の水門と云う。
 また、(御子が)その鳥をご覧になったら物を言うだろうと思われたが、期待どおりに 物を言うことはなかった。
 
 そこで、天皇はご心配になって、寝ているときに(神が)夢に出てきて教えてお告げに なるには、
「わしを祀る宮を、天皇の宮殿のように造営したら、御子は必ず物を言うであろう」
 このようにお教えになったときに、布斗麻邇(ふとまに、太占)で占いをして、
「どのような神のご意志であろうか」
と求めたところ、(御子への)祟りは、出雲大神の御心(ご意志)であった。
 
 そこで御子に、大神宮を参拝させるために遣わせようとしたときに、誰を副えたら良い かと占ったところ、曙立王、と占いにでた。  そこで曙立王に命じて、誓約させて申し上げさせるには、
「出雲の大神を拝礼することで、真に霊験があるなら、この鷺巣の池の木に住む鷺よ、こ の誓約どおり(木から)落ちよ」
と仰せになったときに、その鷺が地に落ちて死んでしまった。 また、
「誓約どおり生き返れ」
と仰せになったところ、再び生き返った。
 
 また、甜白檮之前(あまかしのさき)の、葉の広い樫の木を誓約どおり枯らし、再び誓 約どおり生かした。
 このような訳で、曙立王に倭老師木登美豊朝倉曙立王と云う名を賜った。
 そして、曙立王・菟上王(うなかみのみこ)の二王を御子に副えて遣わされたときに、 「奈良山で足の悪い、目の悪い人に出会うだろう。大阪の道でも出会うだろう。ただ、木 戸(紀伊の道)だけは良い道である」
と占って、そこから出て行くときに、お着きになる地ごとに、品遅部(ほむちべ)をお定 めになった。
 
 このようにして、出雲に到着されて、大神を拝み終わって上京されるときに、肥河の中 に黒樔橋(くろきのすは゛し)を作り仮宮を造ってお泊めした。
 そして、出雲国造の祖先の、名は岐比佐都美(きひさつみ)が青葉の山を飾り立て、そ の河下に立てて、御食物を献上しようとしたときに、御子が仰せられるには、
「この河下の青葉の山のようなものは、山に見えるけど本物の山と違う。もしかしたら、 出雲の石くまの曾の宮にご鎮座の、葦原色許男大神を奉る祝(はふり)の祭場かな」
とお尋ねになった。
 これを聞いて、お伴に遣わされた王たちは、聞いて喜んで見て喜んで、御子を檳榔(あ ぢまさ)の長穂宮にお迎えして、急使を献上した。
 
 さて、その御子は、一夜、肥長比売(ひながひめ)と共寝をされた。そのときその乙女 をこっそり覗き見されると、蛇であった。途端に見て恐れられて、お逃げになった。  そこで、肥長比売が悲しんで、海を照らして船で追って来たところ、(御子は)ますま す見て恐れて、山の多和(たわ、鞍部)から船を引き運んで(大和へ)逃げ上られた。
 ここに(お伴の王が)復命して申すには、
「大神を礼拝されましたことにより、御子は口をきかれ、それで、帰って参った」
と申した。
 そこで、天皇は大いに喜んで、ただちに菟上王を(出雲へ)返して、神宮を造営させら れた。そして天皇は、その御子に因んで鳥取部・鳥甘部(とりかひべ)・品遅部(ほむちべ )・大湯坐・若湯坐をお定めになった。
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