△古事記 中巻 伊玖米入日子伊沙知天皇(垂仁天皇)
 
〈御子の誕生〉
 (これを聞かれて)天皇は、
「自分は、ほぼ騙されるところであった」
 と仰せになって、ただちに軍を興して沙本毘古王を撃とうと派遣するときに、王は稲 城(いなき、稲の砦)を作って迎え撃った。
 このときに、沙本毘売命は兄を思う気持ちに耐えかねて、宮廷の裏門から逃げ出して、 その稲城にお入りになった。
 このときに、后は身ごもられていた。
 ここで天皇は、后を可愛がって大事にしたことが三年にも及んでいたので、悲しみに 耐えられなかった。そこで、軍勢で周りを取り囲んで、急にはお攻めにならなかった。
 このようにして停滞してる間に、妊娠してた御子がお生まれになった。
 そこで、(后は)御子を出して稲城に置かれて、(使者を遣わして)天皇に申し上げ させるには、
「もし、この御子を天皇の御子とお思いになるなら、どうぞお引き取り下さい」
と申し上げた。
 そこで天皇は、
「その兄は恨んでいるが、矢張り后をば愛しい」
と思われていたので、后を取り戻したいと云うお気持ちがあった。
 
 そこで、軍隊の中に力の強い兵士で動作の素早い者を選り集めて、命令されるには、
「御子を引き取るときに、同時にその母親も奪い取れ。髪の毛であろうと、手であろう と、どこでもよいから掴んで引き出せ」
と仰せになった。
 一方、その后は前からその(天皇の)心をお知りになって、すっかり自分の髪を剃り、 その髪で頭を覆い、また、飾り玉の紐を腐らせて三重に手に巻かれて、また、酒で服を 腐らせ、完全な服のようにして身に着けていた。このように準備しておいてその御子を 抱いて、稲城の外へお差し出しになった。
 
 そこで、力の強い兵士達が御子をお受け取りになるとすぐさま、その母親を捕らえら れようとしたが、ところがその髪を掴んだら、髪は当然のごとく抜け落ち、その手をと ると玉の紐は切れ、その服を掴むと服はたちまち破れた。
 そこで、御子を奪い取ることは出来たが、母親は奪うことは出来なかった。
 そこで兵士達は帰って報告申し上げるには、
「髪は自然に抜け落ち、衣服はたやすく破れ、また手に巻かれた飾り玉の紐もすぐに切 れてしまったので、母親は奪い申し上げられずに、御子だけを奪って参った」
と申した。
 
 ここて、天皇は残念にお思いになって、玉を作った人達を憎まれて、全てその土地を お取り上げになった。それで諺に、
「地(ところ)得ぬ玉作り」
と云うのである。
 また、(垂仁)天皇がその后に仰せになるには、
「全ての子の名は、必ず母親が名付けるものであるが、この御子の名をば何とつけよう」
と仰せられさせた。
 そこで答えて申し上げるには、
「今、稲城を焼くときに火の中でお生まれになったので、御名は本牟智和気(ほむちわ け)の御子と申し上げるように」
と申し上げさせた。
 また、
「どのようにして、御子をお育てしたらよいか」
と仰せられるによって、
「乳母をつけて、大湯坐(おほゆゑ)・若湯坐(わかゆゑ)(養育係)を決めてお育て するように」
と申し上げた。
 
 そこで、后の申し上げたとおりにお育て申し上げた。また、后に、
「お前が結び固めた立派な下紐は、誰が解くのか」
と尋ねさせると、
「旦波の比古多多須美知宇斯王の娘、名は兄比売(えひめ)・弟比売(おとひめ)の二 人の女王は忠誠な民であるので、召し使われるのが良いであろう」
と申し上げさせた。
 このようにして、(天皇が)ついにその沙本毘古王をお殺しになったが、その同母妹 の沙本毘売も殉じられた。
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