△古事記 中巻 御真木入日子印恵天皇(崇神天皇)
 
〈建波邇夜須毘古の反逆〉
 また(崇神天皇の)御世に、大毘古命を高志道(こしのみち、北陸地方)に派遣して、 その子の建沼河別命を東の方(東海地方)の十二道(十二ケ国)に派遣して、その服従 しない人たちを平定させられた。
 また、日子坐王を丹波国に派遣して、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺させら れた。
 そして、大毘古命は高志国にお出かけになったときに、腰裳を着けた少女が山代の境界 の坂に立って歌うには、
「こはや 御真木入彦はや 御真木入彦はや
おのが男を 盗みしせむと
後つ門よ い行きたがひ
前つ門よ い行きたがひ
うかがはく 知らにと
御真木入彦はや」
 
 これを(聞いて)大毘古命は不思議だと思って、馬を引き返してその少女に尋ねて言 うには、
「(今)お前が(何を)言ったか」
とお尋ねになったところ、少女は、
「私はもの言わない、ただ歌を歌っただけだ」
と答えて、たちまち行方も見せず、忽然と姿を消してしまった。
 そして、大毘古命は更に(都へ)参上って、天皇に申したときに、天皇が仰せになる には、
「これを思うに、山代国にいるお前の庶兄(ままあに)建波邇安王が反逆心を起こした 表れであろう。伯父(おぢ)よ、軍を興して討伐せよ」
と仰せになって、ただちに丸邇(わに)の臣の祖先、日子国夫玖(ひこくにぶく)の命 を副えて派遣したときに、丸邇坂に忌瓮を据ゑて(神祭りをして)進軍した。
 
 その途中、山代の和訶羅河(わからがは)に着いたときに、その建波邇安王が軍を興 して待ち遮って、お互いに和訶羅河を間に挟んで向かい合って、挑戦した。故に、そこ を名付けて伊杼美(いどみ)と云ったが、今は伊豆美(いづみ)と云う。
 そうして、日子国夫玖命は、
「そなたの人よ、先に矢を放ってこい」
 それに応じて、建波邇安王が射ようとしたが命中しなかった。
 一方、国夫玖命の放った矢は、建波邇安王を射って、死んだ。そこで敵の軍勢はすっ かり破れて、逃げ散った。その逃げる軍を追って攻めて、久須婆(くすば)の渡し場に 着いたときに、皆攻め苦しめられて、屎が出て褌にかかった。それで、そこを名付けて 屎褌(くそばかま)と云ったが、今は久須婆(くすば)と云う。
 また、その逃げる軍をはばんで斬り殺したら、鵜のように(屍体が)河に浮いた。よ ってその河を名付けて鵜河(うかは)と云う。
 また、その兵士をばらばらに斬り散らしたので、それでそこを名付けて波布理曾能 (はふりその)と云う。
 このように平定し終えて、参上って復命申し上げた。
 
 大毘古命は、先のお言葉に従って高志の国の平定のために下った。そうして、東の方 を経て派遣された建沼河別は、その父大毘古と共に、相津(あいづ)で行き会われた。 それで、そこを相津と云う。
 これでもって、それぞれ派遣された国々の政を平和にして復命申し上げた。
 
 このようにして、天下は大いに平穏になって、人民は富み栄えた。
 ここで初めて、男の弓矢で捕らえた獲物、女の手で紡いだ糸織物を献上せさせられた。
 そして、その御世を称えて、所国初国之(はつくにしらしし)御真木天皇と申す。
 また、この御世に依網(よさみ)の池を作り、また軽の酒折(さかをり)の池を作っ た。
 
 この天皇は、御年百六十八歳である(戊寅の年の十二月に亡くなられた)。御陵は、 山辺の道の勾の岡の辺りにある。
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