△古事記 中巻 神倭伊波礼毘古天皇(神武天皇)
 
〈五瀬命〉
 さて、その国からお上りになったときに、浪速之渡(なみはやのわたり、浪速の湾) を経て、白肩津(しらかたのつ)にご停泊になった。このときに、登美能那賀須泥毘古 (とみのながすねびこ)が軍を興して待ち向かって戦った。そして(伊波礼毘古命は) 船に入れてある楯を取って下り立たれた。そこで、そこを名付けて楯津(たてつ)と云 うが、今でも日下の蓼津(たでつ)と云う。
 
 登美毘古と戦われたときに、五瀬命が手に登美毘古の矢の傷を受けられた。そこで (五瀬命が)仰せになるには、
「自分は日神の御子であるが、日に向かって戦うのは良くない。故に賤しい奴の手傷を 負った。今から迂回して、日を背負って撃とう」
と誓われて、南の方から迂回して行かれたときに、血沼海(ちぬのうみ)に着かれて、 その手の血をお洗いになった。故に血沼海と云う。そこから廻ってお出でになって、紀 国の男之水門(をのみなと)に着かれて仰せになるには、
「賤しい奴から受けた傷で死んでたまるか」
と叫ばれてお亡くなりになった。それで、その水門を名付けて男之水門と云う。御陵は、 紀国の竃山(かまやま)にある。
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