△古事記 下巻 沼名倉太玉敷天皇(敏達天皇)
 
 沼名倉太玉敷命は、他田(をさだ)の宮にお出でになって、十四年天下をお治めにな った。
 この天皇が、庶妹の豊御気炊屋比売命を娶ってお生みになった御子は、静貝(しづか ひ)の王、亦の名は貝蛸(かひたこ)の王、次に竹田王、亦の名は小貝王、次に小治田 王、次に葛城王、次に宇毛理(うもり)の王、次に小張王、次に多米(ため)の王、次 に桜井の玄(ゆみはり)の王である(八柱)。
 また、伊勢の大鹿(おほか)の首の娘の小熊子(をくまこ)の郎女を娶ってお生みに なった御子は、布斗比売(ふとひめ)の命、次に宝(たから)の王、またの名は糠代比 売(ぬかでひめ)の王である(二柱)。
 また、息長の真手(まで)の王の娘、比呂比売(ひろひめ)の命を娶ってお生みにな った御子は、忍坂(おさか)の日子人(ひこびと)の太子、亦の名は麻呂古王、次に坂 騰(さかのぼり)の王、次に宇遅(うぢ)の王である(三柱)。
 また、春日の中若子(なかつわくご)の娘、老女子(おみなこ)の郎女を娶ってお生 みになった御子は、難波王、次に桑田王、次に春日王、次に大俣(おほまた)の王であ る(四柱)。
 
 この天皇の御子たちは、合わせて十七柱の中で、日子人太子が、庶妹の田村王、亦の 名は糠代比売(ぬかでひめ)の命を娶ってお生みになった御子は、岡本の宮にお出でに なって天下をお治めになった天皇(舒明天皇)、次に中津王、次に多良王である(三柱)。 また、漢(あや)の王の妹、大俣王を娶ってお生みになった御子は、知奴(ちぬ)の王、 次に妹桑田の王である(二柱)。また、庶妹の玄王を娶ってお生みになった御子は、山 代王、次に笠縫王である(二柱)。合計して七王である。
 
 (甲辰年の四月六日にお亡くなりになった。)御陵は、川内の科長(しなが)にある。
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