△古事記 下巻 袁祁之石巣別天皇(顕宗天皇)
 
〈埋葬〉
 この天皇が、その父王の市辺王の御骨(みかばね)を捜し求められたときに、淡海国 の賤しい老婆が参上して申すには、
「王子の御骨を埋められた所は、私だけがよく知っている。また、その御歯で確かめら る(御歯は、三枝のように押歯であられた)」
 そこで、人民を動員して土を掘り、その御骨を捜し求めて、そして、御骨を得られて、 その蚊屋野の東の山に、御陵を作って埋葬されて、韓袋の子たちにその御陵を守らせら れた。それから後に、その御骨を持って(河内国へ)お上りになった。
 
 さて、還り上られて、その老婆を召して、その所を見失わずに確実にその地を知って いたのを誉めて、置目老媼(おきめのおみな)と云う名を賜った。それによって宮の中 に召し入れて、篤く広く慈しまれた。それで、その老婆の住む家を宮の辺り近くに作っ て、毎日必ずお召しになった。
 そこで、御殿の戸に大鈴を懸けて、老婆を召そうと思うときには必ずその鐸(ぬりて、 大鈴)を引いてお鳴らしになった。そして、(天皇は)御歌をお詠みになった、その御 歌、
「淺茅原 小谷を過ぎて
ももづたふ 鐸ゆらくも 置目来らしも」
 
 さて、置目老媼、
「僕はいたく老いているので、本国(もとつくに、故郷)に退きたいと思う」
と申した。故に申したとおりに退かれるときに、天皇は見送られて歌われるには、
「置目もや 淡海の置目
明日よりは み山隠りて 見えずかもあらむ」
 
 以前、天皇が難にあってお逃げになったとき、その御粮(みかれひ、食料)を奪った 猪甘の老人を捜し求められた。そして捜し求めて召し上げて、飛鳥河の河原で斬って、 皆その一族の膝の筋を断ち切られた。と云う訳で、今日に至るまで、その子孫は倭に上 る日は、必ず足を引きずっている。そして、よくその老人の所在(ありか)を見定めた。 故に、そこを志米須(しめす)と云う。
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