△古事記 下巻 袁祁之石巣別天皇(顕宗天皇) 〈報復の道義〉 天皇は、その父王をお殺しになった大長谷天皇(雄略天皇)を深くお恨みになって、 その霊に仕返しをしようと思われた。そこで、その大長谷天皇の御陵を破壊しようと思 われて、人を遣わすときに、兄意富祁命が申し上げた。 「御陵を破壊するからには、他人を遣わすべきではない。専ら自分が自ら行って、天皇 の御心のように破壊して参る」 すると天皇、 「しからば、お言葉どおりに行かれるように」 そこで、意富祁命は自ら下ってお行きになり、その御陵の傍(かたへ)を少し掘って、 還り上られて、 「すっかり壊した」 と申し上げた。 ここに、天皇は、その早く帰り上られたことを不思議に思われて、 「どのように破壊されたのか」 と仰せになったところ、 「その陵の傍の土を少し掘った」 と申し上げた。 天皇が仰せになるには、 「父王の仇を報いようと思うのであるなら、必ずその陵を悉く破壊する必要があるのに、 何ゆえに少しだけお掘りになったのか」 と仰せになったところ、申し上げるには、 「そのようにした訳は、父王の恨みを晴らすのに、その霊に復讐しようと思うことは、 誠に理に叶う。しかしながら、その大長谷天皇は、父の怨敵ではあるが、一方では自分 たちの従父であられ、また天下をお治めになった天皇であられるので、今、一途に父の 仇と云う志だけで、天下を治められた天皇の陵をすっかり壊したら、後世の人に必ず非 難されるであろう。ただし、父王の仇だけは、報復しなければならない。故に、その陵 の辺りを少し掘ったのである。既にこのように辱められたので、後世に(報復の志を) 示すに足りるであろう」 このように申し上げたので、天皇、 「これも大きな道理である。お言葉のとおり(破壊したと云うことなので)可(よ)し とする」 と仰せになった。 さて、天皇がお亡くなりになって、すぐに意富祁命が皇位に就かれた。 この顕宗天皇は、御年三十八歳である。八年天下を治められた。御陵は、片岡の石坏 (いはつき)の岡の上にある。 |