△古事記 下巻 大長谷若建天皇(雄略天皇)
 
〈赤猪子〉
 またある時、天皇がお遊びに出かけて美和河(みわがは)に着かれたときに、河の辺 で衣を洗う童女(をとめ)がいた。その姿が大層美しかった。天皇は童女に、
「お前は誰の子であるか」
とお尋ねになったところ、
「私の名は、引田部(ひけたべ)の赤猪子(あかゐこ)と申す」
と申した。
 すると、(従者に)お告げさせられるには、
「お前は他の男に嫁に行くではない。今召すようにする」
とお告げさせられて、宮にお帰りになった。
 
 そこで、その赤猪子は、天皇のお言葉を待って、既に八十(長い)年を経たのである。 ここに赤猪子が思うには、
「お言葉を待ってる間に、既に多くの年を経て、姿は痩せて萎んで、全然召されるあて もない。しかしながら、待っている心を顕わにしないでいることは、我慢出来ない」
と思って、百取之机代物(ももとりのつくゑしろのもの、結納品)を人に持たせて、参り 出て献上した。
 
 しかし天皇は、先にお言葉をされたことをすっかりお忘れになって、その赤猪子に尋ね させるには、
「お前はどのような老女であるか。どんな理由で参上したのか」
と尋ねさせると、赤猪子が申すには、
「ある年ある月に、天皇のお言葉を受けて、今日までお言葉を受けて待って、八十年が経 った。今は容貌もすっかり老いて、まったくお召しがない。しかしながら、己の志を顕わ にして申し上げようと参上したのである」
と申した。
 ここに天皇は、いたく驚かれて仰せになるには、
「自分は既に前のことを忘れていた。しかしお前は志を守って自分のお言葉を待ち、無駄 に盛年(みのさかり、女盛りの年)を過ごしてしまったことは、非常に可哀そうである」
と仰せになって、結婚しようかと思われたけれども、(赤猪子が)非常に老いているのを はばかられ、結婚出来ないために、御歌を賜った。その御歌、
「みもろの 厳白檮が本
白檮が本 ゆゆしきかも
白檮原童女」
 
また、歌われるには、
「引田の 若栗栖原
若くへに 率寢てましもの 老いにけるかも」
 そうして、赤猪子が泣く涙に、その着ている赤く染めた服の袖はすっかり濡れた。その 大御歌に答え奉る歌、
「みもろに 築くや玉垣
斎き余し 誰にかも依らむ 神の宮人」
 
 また歌うには、
「日下江の 入江の蓮
花蓮 身の盛り人 ともしきろかも」
 そうして、(天皇は)多くの品物をその老女に賜って、お返しになった。
 故に、この四つの歌は志都歌(しづうた)である。
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