△古事記 下巻 男浅津間若子宿禰天皇(允恭天皇)
 
〈氏姓の正定〉
 天皇は、初め帝位にお就きになろうとしたときに、天皇をご辞退して、
「自分は、一つ長い病気があるので、皇位を継ぐことは出来ない」
と仰せになった。
 しかしながら、大后を始めとして一同の臣下たちも強く奏上したので、それで天下を お治めになった。
 このとき、新羅国主が御調(みつぎもの、献上物)を載せた船八十一隻を奉った。そ して御調の大使の、名は金波鎮漢紀武(こむはちにかにきむ)と云う。この人が薬の処 方を深く知っていた。故に、天皇の病気を治し申し上げた。
 
 さて、天皇は天下の氏氏の名名の人たちの氏姓が誤っているのを心配して、味白檮 (あまかし)の言八十禍津日(ことやそまがつひ)の前(さき)に玖訶瓶(くかへ)を 据えて(神明裁判の一、盟神探湯(くがたち)のこと)、天下の多くの臣民の氏姓を正 しく定められた。
 また、木梨軽太子の御名代として軽部(かるべ)を定められ、大后の御名代として刑 部(おさかべ)を定められ、大后の妹、田井中比売の御名代として河部(かはべ)をお 定めになった。
 
 この天皇は、御年は七十八歳である(甲午年の正月十五日にお亡くなりになった)。 御陵は、河内の恵賀(ゑが)の長枝(ながえ)にある。
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