△古事記 下巻 男浅津間若子宿禰天皇(允恭天皇) 〈木梨の軽太子〉 天皇がお亡くなりになった後、木梨之軽太子は皇位を継ぐのに定まっていたのに、ま だ即位されていない間に、同母の妹の軽大郎女にたわけて、お歌いになるには、 「あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下どひに わがとふ妹を 下泣きに わが泣く妻を こふこそは 安く肌触れ」 これは、志良宜歌(しらげうた、尻上げ歌)である。また、歌われるには、 「笹葉に うつや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人はかゆとも 愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば」 これは夷振の上歌(あげうた)である。 このことによって、官人も天下の人たちも軽太子に背いて、穴穂御子に心を寄せた。 そこで、軽太子は恐れて大前小前宿禰(おほまへをまへのすくね)の大臣の家に逃げ 込んで、武器を備え作られた(その時に作った矢は、矢の筒中を銅にした。それで名づ けて軽箭(かるや)と云う)。 穴穂の王子も武器を作られた(この王子の作れた矢は今時の矢や。これを穴穂箭(あ なほや)と云う)。 ここに穴穂御子は軍を興して、大前小前宿禰の家を包囲された。そして、その門に到 着したときに、大氷雨(ひさめ)が降った。それで(穴穂御子が)歌われるには、 「大前 小前宿禰が 金門かげ かく寄り来ね 雨立ち止めむ」 そうしたところ、その大前小前宿禰が手を挙げ膝を打って、舞を舞って歌ってやって 来た。その歌は、 「宮人の 足結の小鈴 落ちにきと 宮人とよむ 里人もゆめ」 この歌は宮人振(みやびとぶり)である。 このように歌いながらやって来て申すには、 「わが天皇である御子よ。同母の王を攻めないでおくれ。もし攻められるなら、必ず人 が笑う。僕が捕らえて奉ろう」 と申した。 そこで(穴穂御子)は軍勢を解いて退いた。ゆえに、大前小前宿禰が軽太子を捕らえ て、率いて参上して奉った。 その軽太子は捕らえられて、歌われるには、 「あまだむ 軽の嬢子 いた泣かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く」 また歌われるには、 「あまだむ 軽嬢子 したたにも 寄り寝て通れ 軽嬢子ども」 |