△古事記 下巻 大雀天皇(仁徳天皇)
 
〈皇后の嫉妬・八田若郎女〉
 この(事件の)後に、大后が豊楽(とよのあかり、新嘗祭の酒宴)をなさろうとして、 御綱柏(みつながしは、植物の葉)を採りに木国(紀伊国)へお出でになっている間に、 天皇は八田若郎女と結婚された。
 ここに大后が御綱柏を船に沢山積んで帰られるときに、水取(もひとり)の司(役所) に派遣されている吉備国の児島の仕丁(よぼろ、労働者)が、自分の国に帰るときに、難 波の大渡で(皇后の船に)乗り遅れた倉人女(くらびとめ)の船で出会った。
 そこで(仕丁が)語るには、
「天皇はこの頃、八田若郎女と結婚されて、昼も夜も戯れておられるのを、もし大后がこ の事をお聞きになってないので、ゆっくり遊びにお出でになっている」
と語った。
 するとその倉人女が、この話しを聞いて、すぐに大后の船に追い近づいて、仕丁が言っ たことを、細かい事まで申した。
 そこで、大后はいたく恨んでお怒りになって、その船に載せていた御綱柏をすっかり海 に投げ捨てしまわれた。故に、その地を名づけて御津前(みつのさき)と云う。
 
 よって皇后は、宮にお入りにならないで、船を綱で引いて避けて、堀江をさかのぼって、 河(淀川)の川筋に従って山代にお上りになった。このときに歌われるには、
「つぎねふや 山代河を
河上り わが上れば
河の傍に 生ひ立てる
さしぶを さしぶの木
しが下に 生ひ立てる
葉広 ゆつまつばき
しが花の 照りいまし
しが葉の 広りいますは 大君ろかも」
 
 そのまま山代を巡って、奈良山の入り口に到着されて、歌われるには、
「つぎねふや 山代河を
宮上り わが上れば
あをによし 那良を過ぎ
をだてやま 大和を過ぎ
わが見がほし 国は
葛城 高宮 我家のあたり」
 
 このように歌って(山代に)帰られ、しばらく筒木(つつき)の韓人(からひと)、名 は奴理能美(ぬりのみ)の家にお入りになった。
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