<未定稿> 日々の太陽の軌道のうち、私共に強く印象を与える現象として、 (1) 冬至と夏至 (2) 春彼岸と秋彼岸の中日(ちゅうにち) がある。 縄文人も、このことに気づいていたに違いない。 たとえ気づいていたとしても、そのことを社会生活に応用しないと、意味が無い。 太陽の軌道について、その原理を究明し、理論を構築したものとして、「暦」がある。 暦は、一個人のみを拘束するのではなく、不特定多数の人々が、ある特定の集団を構成し、価値観を共有しあって、初めて効果を発揮し、広く応用される。 暦法がいかに優れていても、人々が当該暦法を運用しなければ、意味が無い。 しかして、暦法の採用不採用の権限は、もっぱら為政者に所属する。即ち、価値観を同じくする人々を管理し支配している為政者(王様)が、その暦法を採用することで、全ての人々に適用され、有用なものとなる。 さて、私共が縄文遺跡について思いを馳せるとき、当時、暦があったでしょうか。 筆者は、「暦はあった」と思っている。何故なら、ほぼ日本全国から、大体同じような土器や土偶が出土しているからだ。そのことはつまり、日本国内は、ほぼ全ての地域間において、交易や物流が行われていたものと推察できるからである。 交易が行われていたとすれば、物の価値基準(価値を表す貨幣)・度量衡・暦などは、相互に、普遍的でなければならない。 では、暦の精度は、どれほどのものであったろうか。 英国のストーンヘンジのように、頑丈なものであったろうか。 即ち、「馬蹄形に配置された高さ7mほどの巨大な門の形の組石(トリリトン)5組を中心に、直径約100mの円形に高さ4-5mの30個の立石(メンヒル)が配置されている。夏至の日に、ヒール・ストーンと呼ばれる高さ6mの玄武岩と、中心にある祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇ることから、設計者には天文学の高い知識があったのではないかと考えられている。また、当時としては高度な技術が使われており、倒れないよう安定させるため石と石の間には凹凸がある(Wikipedia)。」 (1) 石の配列が、たとえ天文学的な考えで築かれたとしても、そのことをどのような面で人間生活に応用又は影響を与えたかを究明しなければ、何の意味も無い。 (2) 石の配列が「夏至」を特定するためであったとしたら、やはりその建造物は堅牢でなければならない。 わが国のそれぞれの集落は、おおむね四方を山で囲まれているので、身近に見える山を指標として、「暦法」が応用されていたのではないだろうか。 環状列石に見る、わずかの力で移動するような川原石の配列は、太陽の軌道を特定するための施設としては、あまりにも心もとない。 わが国の縄文遺跡の配石と、太陽の軌道とは、無関係であると考えたい。 |