[55 中江藤樹]
 
出典:講談社インターナショナル(株)発行内村鑑三著「対訳・代表的日本人」
 
〔内面の人〕
 
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 藤樹の学問上の歩みには、二つの段階がある。はじめは、同時代の人と同じく、保守 的な朱子学のなかで育てられた。朱子学では、なによりも自分自身を常に深く見つめる ように要求する。この感じやすい若者が、自分自身の内部の欠点と弱点を絶えず反省す るうちに、よけいに感じやすくなってしまったということは、容易に想像できる。過度 な自己探求の結果は、若いころの生活や著述にはっきりと表れている。藤樹の『大学啓 蒙』は21歳のこの状態のときに書かれた。もしも、進歩的な中国人の王陽明の著作に出 会ったことで新しい希望が生まれていなかったとしたら、気の滅入るような朱子学の抑 圧のもと、生まれつき控えめな藤樹は、よく似た者がそうしたように、不健全な世捨て 人となっていただろう。すでに大西郷の話をしたときに、この優れた思想家について語 る機会があった。日本の歴史のなかで既成事実だと思うのだが、陽明学という中国文化 があったからこそ、私たちは内気で臆病で保守的な、後ろ向きの国民にならなかったの だと言えるだろう。聖人孔子その人は非常に進んだ考え方の人間だった、と今日の孔子 論者はみな認めている。その孔子を勝手に解釈して、世の中に見えている姿に作り変え てしまったのは、後ろ向きに考える同国人だった。だが、王陽明は、孔子の内にあった 進歩性を発展させ、そのように間違った解釈をしがちな人々に希望を吹きこんだ。この 王陽明の力によって、わが国の藤樹は、聖人孔子を新しい目で見ることができた。近江 聖人(藤樹)は、いまや実践的な人間となった。その陽明主義を詠みこんだ、いくつか の歌がある。
 
 「暗くともたゞ一向にすゝみ行け 心の月ははれやせんもし」
 「志つよく引立むかふべし 石に立つ矢のためし聞くにも」
 「上もなくまた外もなき道のため 身をすつるこそ身を思ふなれ」
 
 これらの歌から、静かな村の先生を思い浮かべる人がいるだろうか。
 藤樹には中国の古典の注釈書がある、とすでに記した。実際にそれらは藤樹の全著作 のなかでももっとも重要なものである。しかし、読者は藤樹を当時のふつうの意味での 「注釈家」とは考えないでほしい。藤樹はとても独創的な人間だった。ただ、もともと 控えめだったために、自分の考えを述べるのに、この種の文献を利用したのだ。藤樹が まったく自由な態度で古典に接したことは、門人に繰り返し語った言葉からも明らかだ った。「いにしえの聖人の論文には、現在の社会状態には当てはまらない部分が多い」 、藤樹はこう言うと、改訂版を作って教えた。藤樹が今日生きていたとしたら、異端裁 判のかっこうの対象になっていただろう。
 
 藤樹が人間の創り出した「法(ノモス)」と永遠のうちに存在する「真理(道、ロゴ ス)」とをはっきりと区別していたことは、つぎの有名な言葉に示されている。「道と 法とは別である。一方を他方とみなすことが多いが、それは誤っている。法は時により 、中国の聖人によって変わる。わが国に移されればなおさらである。だが、道は永遠か ら生じたものである。徳の名に先だって、道は広く行きわたっていた。人間の存在より 前に、宇宙には道があった。人間が消滅し、天地が無に帰した後でも、道はあり続ける だろう。しかし法は時代の必要にかなうように作られたものである。時と所が変わり、 聖人の法でさえ、世に押しつけられるものとなれば、道のもとを損なう」
 
 これは、聖書が今日の極端な霊感論者にとって絶対であるように、いわゆる「経書」 が誤りないものと考えられていたときに語られた。このような精神で書かれた注釈書と 当然、大胆で印象的で新しいものだった。
 なにものも恐れず独立不羈の藤樹だったが、その論理体系でなにより注目すべきなの は、謙譲の徳を最高位に置いたことである。藤樹にとって謙譲の徳とは、すべての徳の 源となる根元的な徳であり、謙譲の徳がない人間ならば、すべてを欠いているのと同じ だった。「学者はまず慢心を捨て、謙譲の徳を求めないならば、どんなに学問や才能が あろうとも、庶民から分離した腐肉の地位に終わってしまう」「慢心は損失を招き、謙 譲は天の法である。謙譲は虚である。心が虚であるなら、善悪の判断は自然に生じる」 。藤樹は、虚という言葉の意味を説明して、次のように述べている。「昔から真理を求 める者はこの語につまずく。精神的である故に虚であり、虚である故に精神的である。 このことをよく心得なければならない」
 
 この徳の高さに達するための藤樹の方法は、非常に簡単だった。つぎのように述べて いる。「徳を抱くことを望むなら、日々善をしなければならない。一善をすると一悪が 去る。毎日善をすれば、毎日悪は去る。昼が長くなれば夜が短くなるように、たゆまず 善に励めば、すべての悪は消え去る」。この心の虚に藤樹は最高の満足を覚え、まだ利 己心をまぬがれていない人々をあわれみ、次のように語っている。
 
 「獄下獄あり、
   世界を納む。
  名・利・傲・意、
   その四壁。
  哀しいかな、世間多少の人
   這裡(しゃり)に拘攣(こうれん)し、長えに戚々たり」
 (哀れなことに、たくさんの人たちが、その中につながれて、いつまでも憂い悲しん でいる)
 
 「願い事」や欲望は、どんなものでも嫌った。藤樹が仏教をまったく信仰しようとし なかったのは、仏教にはこの要素が色濃かったからである。善事も、報奨を目的とする ならば、たとえそれが来世の報奨であっても、藤樹の肯けるものではなかった。正義は 、それ以外の動機を必要とするものではない。来世にもたらされる報奨と生活を望む気 持ちは藤樹にはなく、万が一そうした気持ちがあったとしても、藤樹の正義を愛する心 と「天道」を実践する喜びを、なんら妨げるものではなかった。仏教の信仰から離れ、 儒教にかわった息子のことを悲しんでいる一人の母親に、つぎのような手紙を送ってい る。「後生(ごしょう)を大切にお考えになられることはよくわかります。しかし、後 生が大切なら、今生(こんじょう)はもっと大切だということにお気づきになってくだ さい。今生に迷うなら、後生にも迷い続けることに成るでしょう。‥‥このように不確 かな、明日をも知れぬ人生にありましては、わが胸のうちの仏をいつも拝する態度がも っとも大切です。云々」。藤樹が無神論者でなかったことは、わが国の神々に深い敬意 を払っていたことからもよくわかる。ただ藤樹の信仰は、すべてに正しくありたいとい う願いを除いて、あらゆる種類の「願い事」からめずらしいほど無縁だった。
 
 それでいて藤樹は、人生を十二分に楽しんだようだ。すべての著作を通して、意気消 沈した様子は一点も見つからない。私たち自身の神や宇宙の思想からみると、陽明学派 の藤樹がとうしてこれほど幸福だったのか、とても想像がつかない。
 つぎの「冬の日に」という歌を詠んだ心情には、永遠の喜びが溢れていたにちがいな い。
 
 「世の中の桜をたえておもはねば 春の心は長閑なりけり」
 
 つぎも同じ調子の歌である。
 
 「思ひきやつらく憂かりし世の中を 学びて安く楽しまんとは」
 ……
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