53・54・55 吉野五十七年(二・三・四)
 
(前略)
 建武の中興に際して、弱冠十六歳でありながら、陸奥守に任ぜられたのは、北畠顕家 でありました。表面は陸奥守となっていますが、実は陸奥・出羽両国の鎮定を、その任務 としたのです。陸奥・出羽の両国と云えば、今の東北六県に当たり、範囲、極めて広大で あり、遠く中央からかけ離れて、王化に浴する事少なく、北条氏滅亡の直後には、まだ 問題の多い地方であります。初め顕家は、之を御辞退申し上げましたが、後醍醐天皇は 、
 「公家すでに一統しぬ。文武の道、二つなるべからず。昔は皇子皇孫、もしは執政の 大臣の子孫のみこそ、多くは軍の大将にもさされしか。今より武を兼ねて、藩屏(はん ぺい)たるべし。」
と仰せられ、御みずから旗の銘を書いてたまわり、さまざまの武器をさえ与えられまし たので、顕家は謹んでおうけ申し上げ、皇子義良親王をいただいて、任地へ下りました 。その出発に際しては、御前に召して勅語をたまわった上、特に御衣及び御馬を授けら れました。任地は多賀城、即ち今の塩釜の近くですが、ここに赴任してより一年半、両 国は皆その威に靡き、その徳に服しましたので、建武元年のくれには、勲功の賞として 従二位を授けられました。十七歳の従二位も目覚ましい事ですが、翌年には十八歳で鎮 守府将軍を兼ねる事になりました。(中略)
 
 同様に不思議なのは、北畠親房の運命です。親房はこの時四十六歳、先年その御輔導 申し上げた世良親王のおかくれを歎いて大納言の栄官を御辞退申し上げ、出家しまして 後の八年間、表面には立たなかったのでしたが、今や長男の顕家は戦死し、次男の顕信 は任地へ下れず、楠木も、新田も、中興の諸将大抵戦死して、賊の勢いのみ盛んである のを見て、すでに出家の身でもあり、年も取っているののの、慨然として回復の計画を 立て、賊軍討伐の指揮をとるに至りました。
 
 親房が先ず入ったのは、筑波山のふもと小田の城でした。賊軍の包囲を受けて奮戦し ているうちに、翌年後醍醐天皇おかくれになり、義良親王御譲りを受けて御位につかせ 給うたとの連絡を受け、感慨に堪えずして筆を執り、神皇正統記を著しました。延元四 年の秋の事です。その翌年には、また職原抄を作りました。そのうちに賊将高師冬、し きりに小田城に迫り、城主小田治久も之に通ずるに至りましたので、親房は興国二年十 一月、関の城へ移り、大宝その他の城と力を合わせて賊を防ぎましたが、その間に再び 神皇正統記を書き直しました。そして興国四年十一月、城陥るに及んで伊勢に帰り、吉 野へ参って、朝廷の中心に立ち、大政を御輔佐申し上げ、正平九年に六十二歳で亡くな りました。
 
 後村上天皇の御代、一時賊の勢い盛んで吉野の行宮(あんぐう)を焼くに至りました が、朝廷が之に屈する事なく、足利の誘惑を退け、やがて一時足利高氏の降参を許して 、いわゆる北朝を廃し、京都を取り戻して、しばし御心をお慰め申し上げる事の出来ま したのは、親房の雄大なる計画の現れでありましょう。
 
 最も重大なのは、神皇正統記であります。それは一口に云えば、我が国の歴史を書か れたものでありますが、ただ出来事を並べたと云うのでは無く、日本と云う国は、どう して建設せられたのであるか、この国の理想は何であり、本質は何であるか、建国以来 二千年を通じて、その基底に流れている精神はいかなるものであるか、それを説いたも のであります。親房は初め之を、まだ御年若くして情勢の最もむつかしい時に御位につ かせ給うた後村上天皇、及びその側近にお仕えしている人々の参考に供したのでしょう が、之を愛読して、以て心の支えとしているのが、吉野の朝臣のみでなく、関や大宝の 城を守って、賊軍と戦っている官軍の将士がまた、之を読んで感激しているのを知るに 及んで、更に手を入れて之を修訂したのでありました。即ち本書は、吉野の君臣にとっ てだけで無く、ひろく各地の官軍将士にとりましても、心の支えであったのです。そし てそれは吉野五十七年の間だけでなく、その後戦国の間にも、ひろく全国各地で、写さ れもし、読まれもして、非常に珍重せられ、やがて江戸時代になりますと、すぐれたる 学者は、この書によって、日本国の本質を理解し、そしてそれが明治維新を導き出して きたのです。一冊の書物が、一国の運命を担う事、往々にして人を驚かせます。ドイツ のフィヒテ(Fichte)などもその一例ですが、我が国における神皇正統記などは、その 最も目覚ましい例です。
 
 神皇正統記は、かように大切な書物ですから、ここに少し選び出して、掲げておきま しょう。先ず後嵯峨天皇の条より。
 「神は人を安くするを本誓とす。天下の万民は皆神物なり。君は尊くましませど、一 人を楽しましめ、万民を苦しむる事は、天も許さず、神も幸せぬいはれなれば、政の可 否に随ひて、御運の通塞あるべしとぞ覚え侍る。まして人臣としては、君をたふとみ、 民をあはれみ、天にせぐくまり、地にぬき足し、日月の照すを仰ぎても、心のきたなく して光に当らざらん事をおぢ、雨露の施すを見ても、身のただしからずして恵に漏れん 事をかへりみるべし。朝夕に長田狭田の稲の種をくふも皇恩なり。昼夜に生井栄井の水 の流を呑むも神徳なり。是を思ひも入れず、あるに任せて欲をほしいままにし、私を先 として公を忘るる心あるならば、世に久しき理侍らじ。」
 
 次に後醍醐天皇の条より。
 「およそ王土にはらまれ、忠をいたし命を捨つるは、人臣の道なり。必ずこれを身の 高名と思ふべきにあらず。しかれども後の人をはげまし、其の跡をあはれみて賞せらる るは、君の御政なり。下として競ひ諍ひ申すべきものにあらぬにや。(中略)このごろ のことわざには、一たび軍にかけあひ、或は家子郎従、節に死ぬる類あれば、我が功に おきては日本国を給へ、もしは半国を給ひても足るべからずなど申すめる。実にさまで 思ふ事にあらじなれど、やがてこれより乱るる端ともなり、また朝威の軽がろしきも推 しはかるるものなり。”言語は君子の枢機なり”といへり。あからさまにも君をないが しろにし、人におごることは、あるべからぬ事にこそ。先にもしるし侍りし如く、堅き 氷は霜を踏むよりいたる習なれば、乱臣賊子と云ふものは、その始、心言葉をつつしま ざるより出で来るなり。世の中のおとろふると申すは、日月の光のかはるにもあらず、 草木の色のあらたまるにもあらじ。人の心の悪しくなりゆくを、末世とはいへるにや。 」
 
 神皇正統記は、かような教が載せてあって、大切な書物ですから、是非皆さん読んで 下さい。
 次に職原抄は、我が国の官職制度を記されたものですが、これは非常にひろく読まれ 、写され、更に講義せられ、注釈せられたものです。それは当時の武士、大抵官職を誇 称したでしょう。たとえば楠木正行を攻めた賊軍、高師直は武蔵守、その弟師泰は越後 守、そして之に参加する者、甲斐守、駿河守、左京大夫、刑部大輔、判官、左衛門尉等 を称しています。賊軍でさえこの通りでしたから、武士と云う武士で、官職を誇称しな い者は無かったでしょう。しかも彼等は、その官職がもともと何を意味するかをしらな かったでしょう。そこで職原抄の講義を聴いて、その意味を理解し、また上下の序列を 知ろうとしてのでした。それがまた、大きな結果を生じましたのは、しらべて見れば一 切の官職は、天皇の授け給うものであり、将軍といえども天皇によって任免せられるも のである事が分かってきたからであります。そして国民の大多数が気楽に自称している 左衛門、右衛門、左兵衛、右兵衛などが、実は皇居の護衛をその本務とするものである 事に気がついてきますと、そこに国民としての自覚が生じてきたのです。
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