31 延喜、天暦
 
 右大臣菅原道真、誠忠実直の人物であり、学問は和漢に通じており、博くもあり、深 くもあったのに、他の人々の讒言によって大宰府へ流されてしまった事は、かえすがえ すも遺憾でありました。然し当時は、醍醐天皇まだ御年若くましまして、重臣たちの進 言に迷わせ給うた事、是非も無い事でありました。
 
 この事一つを除けば、醍醐天皇の御代は、一代飛んで次の村上天皇の御代と共に、我 が国の中で理想的な時代、黄金時代として、長く後世から慕われました。醍醐天皇の御 代三十四年、年号は昌泰が三年、延喜が二十二年、延長が八年、その最も長い延喜を取 って、天皇を延喜の帝と云い、御代を延喜の聖代(せいだい)と云います。次には醍醐 天皇の皇子朱雀天皇がお立ちになりましたが、十六年たって、御弟村上天皇に御ゆずり になりました。村上天皇の御代二十一年、その代表的な年号を取って、天暦の帝、天暦 の御代と云います。
(中略)
 
 いかにも延喜・天暦の御代は、平安時代の中でも、一段と花やかな時代でした。延喜に 作られたもの、古今集あり、延喜格あり、延喜式あり、その外に今一つ重要なものとし て三代実録があります。我が国の歴史、朝廷で正式に編修せられたものを、正史と云い ます。日本書紀がその最初です。その次に続日本紀、日本後紀、続日本後紀、文徳実録 と、段々作られてきたのを受けて、清和・陽成・光孝三天皇の御代の歴史を、五十巻にま とめたものが、即ち三代実録です。それは宇多天皇の御代のうちに仕事が始められ、菅 原道真もこれに参加しましたが、いよいよ出来上がったのは、延喜元年の八月でした。 かように歴史が編修せられる事は、国家が意識せられている事を示すものです。平安時 代も中頃までは、国家意識が強く、日本書紀の研究も盛んで、朝廷では三十年に一度ほ どの割合で、日本書紀の講義が行われました。延喜の御代には、延喜四年にその講義が ありました。ところが、あとから整理してみると、
(一)正史編修は、延喜元年の三代実録が最後で、その後は作られていません。
(二)法令の編修は、延喜元年の延喜格、延長五年の延喜式を以て終わり、その後は作 られていません。
(三)日本書紀の講義は、村上天皇の康保二年を最後として、それ以後は行われてい ません。
 
 康保二年は、西暦九六五年ですから、今から凡そ一千年前に当たります。その頃まで は、国家意識が強く、歴史も研究せられ、更に新たに歴史が編修せられ、法令も整備せ られていたのでした。これが今後は弛んでしまって、国を考えるよりは、自分の一身一 家の生活を考えるようになり、国は衰えもし、乱れもする事になりました。そこで後世 からふりかえって見ると、延喜・天暦の御代は、光り輝くところの黄金時代、理想の時代 として、人々の目にうつったのでした。
 
 延喜の御代に、今一つ注意すべき事があります。それは、荘園を禁止する勅令が延喜 二年の春、出された事です。土地をすべて国有地とし、それを公平に国民に分与して耕 作させ、自分の生活も立てさせ、国への納税もさせると云う大化改新以来の制度は、荘 園によって崩れてゆくのです。大きな功績のある人に、特別に土地の私有を許し、その 土地を国司の管轄からはずしてしまえば、その土地からの租税は、荘園の領主にこそ入 れ、国家へは納入されないでしょう。延喜二年に、皇族や貴族の荘園を禁ずると云う勅 令が出た事は、次の二つの事実を示すものです。
 第一、当時すでに荘園の弊害が目立っていた事。
 第二、当時の朝廷には、その弊害を取り除こうとする気魄があった事。
(中略)
 
 その光輝く時代が、どうしてやがて崩れていったか。それは朝廷高級の官吏、優雅風 流の生活を楽しんでいるばかりで、国の為、世の為、刻苦奮励する気象が欠けてきたか らです。源氏物語に出てくる人物が、そうでしょう。(中略)
 
 このような状態であれば、延喜・天暦の聖代も、次第にくずれてゆく事、やむを得ます まい。つまるところ、男らしい男がいなかったのです。国を憂い、道を守り、邪悪を排 除して、風紀を正そうとする人物が欠けていたのです。
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