29 延喜式
 
(前略)
 さて「いろは歌」の作られてより、源氏物語の現れるまで、その間約二百年、その丁 度中程に当たるのが、延喜の御代で、その延喜五年に勅撰せられたのが古今集です。と ころが同じく延喜五年に勅を下されて、編修させられ、編修に手間取って二十二年後に 完成したものに、延喜式があります。随分長く手間取ったように思われますが、何分に も五十巻にわたる詳しい規定の整理ですから、それも無理ではありますまい。当時の法 制に、律・令・格・式の区別がありますが、律は刑法、令は法令、この二つが原則であり、 基本であるのに対し、格はその時その時の条件に応じて之を融通するもの、そして式は 、原則的な法令に漏れている細かい規定を集めたものです。
 
 さてその延喜式を見るに、第一巻から第十巻までは、神祇関係の規定、そのあとが太 政官、八省と続きます。即ち神祇は、太政官・八省よりは前にあるばかりでなく、非常に 沢山の分量を占めているのです。順徳天皇のお作りになりました禁秘抄の最初にも、「 凡そ禁中の作法、神事を先にして、他事を後にす」と仰せられましたように、我が国で は神事は一切に優先したのです。またその神祇式十巻の中に、伊勢大神宮と、斎宮寮と に、それぞれ一巻あててありますが、斎宮と云うのは、伊勢大神宮にお仕えになる皇女 の事ですから、つまり伊勢大神宮に二巻あててあると云ってよいでしょう。伊勢大神宮 の重んぜられた事は、之でも分かります。
 
 天孫降臨の際に、天照大神からお授かりになった神鏡、長く宮中でおまつりになって おられましたが、崇神天皇の御代に、神威をけがすおそれがあるとお考えになり、倭笠 縫の邑にお移しになり、豊鍬入姫命をして奉仕させられました。次の垂仁天皇の御代に 、奉仕させられたのは倭姫命でしたが、命は更に良い土地を求めて方々お調べになり、 最後に神のお告げによって、伊勢の五十鈴川のほとりにお宮を建てられました。それが 即ち伊勢大神宮(内宮 SYSOP)であります。
 
 そこへ、やがて雄略天皇の御代に、丹波(京都府)から豊受大神をお迎えになったの が度会の宮で、この宮を内宮に対して外宮と云い、両宮を合わせて二所大神宮と云いま したが、延喜式で見ると、内宮の摂社二十四座、外宮の摂社十六社、その分布と云い、 神域と云い、実に広大であります。そのお祭りの規定、まことに厳重であります中に、 大神宮は二十年に一度造り替え、皆新しい材木を用いなければならぬとあります。寺の 方は古くて良く、むしろ古い方が良いとされているのに、大神宮に二十年ごとに造りか えよとあるのは、神道は清く明るく、けがれの無いのを良しとするからです。
 
 斎宮は音で読めば「さいぐう」、訓で読めば「いつきのみや」です。天皇御即位にな れば、未婚の内親王を選んで、大神宮に奉仕させられます。之を斎王ともうします。初 めは宮中の初斎院に入られて身を浄められ、やがて京都の郊外に野宮(ののみや)を建 ててお入りになり、一年間潔斎をされた上で、伊勢の斎宮に参られます。
 
 斎宮では仏教は、死や病と同じく、忌むべきものとされ、忌むべき詞は、必ず別の詞 で云わねばなません。たとえば、
 仏は  中子、
 経は  阿良良岐、
 寺は  瓦葺、
 僧は  髪長、
 尼は  女髪長、
 死ぬは 奈保留、
 病むは 夜須美、
 哭くは 塩垂、
 血は  阿世、
 打つは 撫、
と云う風です。仏教が我が国に入ってより、すでに四百年もたち、奈良には東大寺が、 諸国には国分寺が建てられ、更にまた比叡山や高野山が創立せられて、仏教全盛時代を 現出した如くに見える中に、実は日本の純粋性を、その根本において守り通そうとする 精神の、根強く存しているのに、注意しなければなりません。
 
 全国の神社、延喜式の神名帳に載せられてあるもの、総じて三千百三十二座。(中略 )
 皆さん、旅行して時々「式内何々神社」と書いた標柱を見つける事がありませんか。 その「式内社」と云うのは、「延喜式の神名帳の内に載っている」と云う意味です。つ まり一千年以上の歴史をもつ古い神社と云う事です。
(以下略)
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