12 聖徳太子(下)
 
 聖徳太子が冠位をお定めになったり、憲法をお作りになったりして、国家の基本が固 められた事は、内政の上で頗る重大な御事蹟でありましたが、外交の方面でもまた目ざ ましい御働きがありました。それまで支那は、南と北とに別々の国が建てられて対立し ていましたが、やがてその双方が統一して、隋と云う強力な国家が作られました。その 隋の煬帝(ようだい)が、父の後を承けて王位に登ったのが西暦六〇五年、我が国では 憲法十七条の作られた翌年に当たります。煬帝は久し振りに支那大陸を統一して意気揚 々たる勢いで、年号も大業元年とつけました。その大業三年に、煬帝は日本の使節小野 妹子から国書即ち外交文書を受け取りました。支那では自分を大国として、周囲の国を 小国とし、小国は大国の前に屈従すべきものと考える習慣があるので、日本からの国書 も、必ずその様な内容又は態度であろうと期待していました。ところが開けて見て驚い た。そこには、
 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。」
と、全く対当に書いてあるではありませんか。煬帝は不機嫌になって、外務の役人に向 かい、この様な無礼な外交文書は、二度と取り次がない様に、と命令した事が、これは 隋の歴史「隋書」に明瞭に記されているのです。
 
 外交文書は気に入らなかったが、日本との通交は希望するところであったので、煬帝 はその翌年妹子が帰朝する時、外交官裴世清(はいせいせい)を添えて日本へ送りまし た。聖徳太子は盛大に之を歓迎し優遇せられましたが、その隋に帰る時には、また小野 妹子を大使として遣わされました。この時持って行った国書は、日本書紀に載せてあり ます。その書き出しには、
 「東の天皇、敬って西の皇帝に白す。」
とあって、文字こそ違え、意味も態度も前年のものと同じであります。かように対当の 外交は、支那では非常に珍しい事で、さればこそ随書にも特に記されてあり、後々まで も長く語りつがれたのでありますが、これは全く聖徳太子の高い御見識から出た事であ ります。
 
 国家としては、どのような強大な国とも、対当で交わって、決して卑屈な態度は取ら れなかったが、しかし聖徳太子は、孤立独善を善いとは思われず、外国の学問は、之を 学び、外国の文化は、之を取り入れようとつとめられました。小野妹子が二度目の渡海 に当たって、
 福因、恵明、玄理、大国、日文、請安、恵隠、広斉
以上の留学生を遣われました。これは皆帰化人もしくはその子孫であって、朝廷が外国 から帰化した人々を、あたたかく待遇された事も分かれば、それらの人々が我が国の文 化の発展に貢献した事も、これで知られましょう。またこの時の留学生八人のうち二人 は三十一年後に、別の二人は三十二年後に帰って来た事を考えますと、仕事をあわてず に、十分研究して来る様に、と云う御方針であったろうと思われます。
 
 太子は憲法を作り、冠位を定めて、国家の本質を純化し、制度を明確にしようとされ ましたが、国体つまり国柄と云うものは、歴史から出てくるものですから、法制の規定 だけでは不十分で、どうしても歴史を調べ、由来を明らかにしてこなければなりません 。そこで太子は、大臣蘇我馬子と相談して、歴史の編修に力を致されました。そして天 皇記・国記を始め、主な豪族の歴史が書かれたのでありました。
 
 いよいよ歴史を書くとなれば、必要なのは年月です。神話とか、物語とか、云うもの は、「昔々ある時に」で済みますが、それでは歴史にならないのです。「何時、何処で 」と云う時間と空間の規定が無いのでは、歴史にはならないでしょう。然し我が国では 、長い間、いろいろの出来事が、口伝で伝わって来ただけですから、今歴史を書くに当 たって、この点で困られたに違いありません。そこへ支那の讖緯(しんい)の説が入っ て来て、凡そ歴史と云うものは、千二百六十年で大きく変わるものだ、と主張し、殊に その際、転回期は辛酉の年だ、と説いたでしょう。そこでその原則を採用して、推古天 皇の九年辛酉の年を、新しい時代の出発点とし、神武天皇の建国をそれより千二百六十 年前の辛酉の年に違いないときめて、伝えられた物語を、その間に配列していっただろ うと云う事、すでに前に皇紀の条で述べました。
 
 この推定によって、古い時代の年月が延び過ぎた事は致し方無いとして、推古天皇の 御代が、新しい時代を開くものだとの考えは、聖徳太子の輝かしい新政を目の前にして 人々にとっては、正に実感を以て迎えられたに相違ありません。殊にそれが新しい時代 と考えられたのは、仏教が公然とひろまり、寺院が美しく建てられた点に、重大なより どころがあったでありましょう。
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