12a 聖徳太子(下)
 
 仏教渡来の初め、蘇我稲目は喜んで之を迎え、物部尾興と中臣鎌子とは嫌って之に反 対した事は、前に述べた通りで、一応反対派が勝って、仏像は難波の堀江に棄てられ、 寺院は火をつけて焼かれましたが、蘇我氏はその信仰を捨てません。用明天皇の御代に は、それぞれ親の考えをうけついで、一方は蘇我馬子、他の一方は物部守屋と中臣勝海 、双方にわかれて争いましたが、やがて勝海も守屋も殺されてしまい、蘇我氏が絶対優 勢となり、従って仏教は盛んになりました。
 
 その仏教を深く研究せられましたのは、聖徳太子です。憲法の第二条に「篤く三宝を 敬へ」と諭された事は、すでに述べましたが、太子は宮中において、法華経や勝鬘経( しょうまんぎょう)を御自身で講義し、説明せられました。殊に驚くべきは、お経の注 釈を作られた事です。それは、維摩経、勝鬘経、法華経の三つについて、それぞれその 義疏を作られたと云うのです。義疏とは、注釈の事です。三経の義疏の原本は、その一 部が後に失われましたが、それでも法華気疏だけは見事に残って今日に至り、ただ今は 御物(皇室の御宝物)として、宮中に安置せられてあります。それは昔から非常に重ん ぜられ、写本もあれば、印刷本も出ましたが、今述べました御物の本は、聖徳太子の御 書きになった原本です。それが何時書かれたかは明瞭でありませんが、太子のお亡くな りになりましたのは、推古天皇の三十年(西暦六二二年)ですから、それ以前である事 、云うまでもありません。即ち今よりかぞえて千三百五十年ばかり前のものです。金石 に文字を刻みつけたものは、これより古いのもありますけれども、紙に書かれたものと しては、この太子の真筆法華義疏が、我が国では最古のものです。千三百五十年前と、 一口に云えば何でも無いようで、実は非常に長い長い年月です。何処の国へ行っても、 そう云う古い時代に、紙に書かれたものが残っていると云う例は、容易にありますまい 。あったとしても、それは岩窟の中や土中に秘匿されていたものでしょう。それにこの 法華義疏は、木造の建物の中に安置せられ、代々尊ばれて、千三百年を越え、千四百年 にもなろうとしているのです。日本の国柄は、こう云うところにも良く現れています。
 
 聖徳太子の仏教御研究は、かように深かったのですが、世間一般の人の目にうつり、 その心を動かしたものは、むしろ寺院の建立であったでしょう。当時、飛鳥(奈良県) には、蘇我馬子が法興寺を起てました。それも壮大なる堂塔をもっていたようですが、 太子が難波(大阪)にお建てになった四天王寺と、斑鳩(奈良県)に建てられた法隆寺 とは、今日に至るまで、人々の目を驚かし、深く尊ばれています。四天王寺は、仏教で 云う国土の四境(しきょう)を守る神々、即ち持国天・増長天・広目天及び多聞天を本尊 として祀り、海外交通の大切な港である難波の丘の上に建てられて、外国に対して我が 国を守ろうと云う願いをこめられたものですが、その建物は、中門・塔・金堂・講堂が、南 北一直線に列っていて、その形式は、朝鮮のものと同様ですが、法隆寺になると、前方 に中門、後方に講堂があり、その中央には、この二つを結ぶ線の、向かって左に塔、右 に金堂を建ててあります。これは外国に先例の無い配置で、全く日本独特のものであり 、太子の独創であろうと考えられてきました。
 
 さあ、これ等の堂々たる大寺院が建てられると、人々は目を見張って之を眺め、胸を 躍らせて、その門をくぐったでしょう。我が国古来の神社は、その大きさにおいても、 気高さにおいても、決して劣るものではありませんが、すべて閑素に出来ており、それ が神社の特色になっているのに、新しく建てられた寺院は、全然異様の意匠であり、装 飾に充ちたものであり、その中に安置される仏像は、今まで見た事も無ければ、聞いた 事も無い金銅の製作、燦然と輝いているでしょう。読経を聞けば、何の意味か分からな いが、豊かな異国情調に、うっとりと夢の世界に誘われる想いがしたでありましょう。 建築の殊に美しいのは塔です。五重の塔が高くそばたち、その先端の九輪が、まっすぐ に天を指してのびているのを仰ぎ見る時、人々はこの世ならぬ仏の浄土に想いを馳せた でしょう。
 
 かようにして推古天皇の御代、聖徳太子摂政の時は、新しい時代の始まりと考えられ たに無理はありません。皇紀は実にこの時点において計算せられたので、それに実際の 年月との食い違いがあるとしても、歴史的意味は深いのです。
 
 ところが不幸にして、この輝かしい時は長く続かず、国家は重大なる難関にさしかか りました。それは聖徳太子の御病死であります。太子は、今こそ推古天皇の摂政であら せられますが、皇太子でありますから、やがては当然御叔母天皇の御譲りを受け、即位 せらるべき予定でありました。それが推古天皇の三十年二月二十二日の夜、病気の為に おかくれになりました。御年は四十九歳でした。日本書紀に、その時の悲しみを述べて 、
 「諸王諸臣及び天下の百姓悉く、長老は愛児を失ふが如く、味口にあれども嘗めず、 わかき者は慈父母をうしなふが如く、泣きいさつる声、みちに満てり。乃ち耕す人は耜 を止め、舂く女は杵をとらず。皆いふ、日月輝を失ひ、天地すでに崩れたり、今より後 、誰をかたのまんやと。」
と記しています。高句麗の僧恵慈(えじ)の如きは、「太子がおかくれになった以上、 我ひとり生きていても仕方が無い、来年の御命日には死ぬ事にする」と云って、その通 り亡くなったと云います。
 
 聖徳太子おかくれの後、六年たって、推古天皇もまたおかくれになりました。本来な らば、その後をおつぎになるべき聖徳太子が、すでにいまさず、そして皇太子をおきめ にならずに天皇もおかくれになったので、どなたが皇位をおつぎになるかが、問題にな りました。その時、大臣は蘇我馬子の子蝦夷でありました。蘇我氏は、応神天皇御幼少 の時に朝廷のいわば大黒柱となって大功のあった武内宿禰の子孫であり、本へ遡れば孝 元天皇から出ている名門ですが、稲目の子馬子の代になると、勢力の強くなるにつれて 、驕慢になり、我侭にふるまうようになりました。用明天皇・推古天皇の御母も、稲目の 女であれば、崇峻天皇の御母も、稲目の女でありました。即ち蘇我氏は外戚(母方の親 戚)として、その勢力は他の重臣を威圧するものがありました。用明天皇おかくれの時 、馬子は推古天皇をお立てしようとして、之に反対する皇族と物部守屋とを殺しました 。崇峻天皇は、御母は蘇我氏の出ではありましたけれども、馬子のかような我侭を、非 常にお憎みになりました。その噂を漏れ聞いた馬子は、駒と云う帰化人をつかって、天 皇を弑したてまつりました。そのあと、御即位になりましたのが、推古天皇です。
 
 そこで聖徳太子が摂政におなりの頃は、馬子全盛の時代でありました。太子の御聡明 を以てして、馬子の暴逆に気がつかれない筈はありません。しかも之を処分せられなか ったのは、処分しきるためには、国の運命をかけなければならぬ程の危険性があったか らでしょう。そこで憲法や冠位をお作りになって、君臣の別を明らかにし、上下の秩序 を立て、同時に仏教の力を借りて、人々に反省を求められたのでありましょう。それが 有終の美をなさずに、太子がおかくれになり、間も無く馬子の後をついだ蘇我蝦夷は、 父以上に驕慢であり、我侭であったので、問題はいよいよ深刻になりました。
 
 蝦夷の悪事、その第一は、推古天皇の次には、山背大兄王を排除して、敏達天皇の御 孫欽明天皇をお立てしようとし、之に反対する境部摩理勢を殺した事です。聖徳太子が 生きておいでならば御即位になるべきところですから、おかくれの今は、御子山背大兄 王が御相続になるべき事と、人々は思いもしたでしょうし(日本武尊御早世の後、その 御子仲哀天皇がお立ちになったように)、御人柄からも人望の高かったのに、蝦夷は山 背大兄王を排除し、そしてその子入鹿に至っては、王の一家を攻め滅ぼしてしまったの でした。
 
 彼の悪事の第二は、自分の先祖を祭るのに、帝王の礼を以てし、ひろく国民を徴発し て、自分父子の墓を造らせ、蝦夷の墓は、大陵と呼び、子の入鹿の墓は、小陵と呼ばせ 、聖徳太子の御子孫に奉仕する事にきまっていた人々を、勝手に自分の墓につかい、「 天に二つの日無く、国にふたりの王無し」と云って、蘇我のこの我侭を憤慨せられた太 子の御遺族を亡ぼしてしまった事です。
 
 第三の悪事は、蝦夷、朝廷に出勤しないで、勝手に子の入鹿に紫の冠を授け、ほしい ままに大臣の待遇をした事です。
 
 その蝦夷の子が入鹿ですが、これは親の蝦夷さえあきれる程の悪逆な男で、聖徳太子 の御遺族を亡ぼした後、いよいよ思いあがって、父の家を「うえつみかど」、自分の家 を「はざまのみかど」と呼び、自分の子供を「みこ」と云いました。父の家は丘の上に あり、自分の家は谷間に在ったのでしょうが、之を「みかど」と云うのは、僭越でしょ う。「みかど」は御門、即ち天皇の御所の御門の事で、それから起こって、天皇を指し 奉って「みかど」と申し上げたのに、蘇我は自分の家を「みかど」と呼ばしめたのです 。そしてその家には、厳重なる防備を施し、自分の身辺には護衛兵五十人を置き、自分 の家へ出入りする者を「おやのこわらわ」と呼びました。「蘇我に対して、親分子分の 関係をもっている若者」と云う意味です。国家の紀綱は紊れた。蘇我氏の横暴に反対す る者、今は無い。入鹿にして更に一歩を進めるならば、日本国はここに断絶しなければ ならない情勢となりました。
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