「松館今昔:様々なこと」

千刈田の道

 私の家の畑は、尾去平(オサリテェ)の入り口にあった。 そこへ行くには、十文字目から下モ通りを経て、千刈田(シェガリダ)の田の 中の道を通り、下モ平から山岸を通って薬師様の所で県道へ出る。 県道へ出てすぐ行くと、県道の上が私の家の畑であった。
 
 さて、当時の馬車の車輪は、木製の木枠に金輪の付いたものであった。 そのような馬車は、普通は県道などの地盤の固い道路向きであったが、 上通りの家の馬車は、下モ平や花輪の方へ行くのに、 よく千刈田の道を通った。
 つまり、下タ通りの県道へ出るには、上ミ坂や下モ坂は急なので通れないし、 車の坂(上ミの坂)は遠回りだし、横道は狭くて危険だし……、 と云うことで、千刈田の道が利用された。
 
 千刈田の道は、田の中の「土の道」なので、痛みが激しかった。 したがって、リヤカーなど人力の車は通れなかった。その頃のリヤカーも、 木製の木枠に金輪の付いたものであった。やむを得ず、横道を通るのであったが、 これまた、石から道で、二人がかりでなければリヤカーを曳けなかった。
 真夏の月の出た夜、尾去平の畑から、掘ったエモ(ジャガイモ)をリヤカー につけて、下モ平の県道を通って、墓地の下の横道をやっとこさ曳っ張り上げた ものであった。

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