千刈田の後方(田の尻)のうち、北の方を「下モ平(現「字松館下モ平」)」
と呼び、東の方を「水無(みずなし)」と呼んでいた。
水無は、下モ川の北側で、当家の墓地や蒼前様などのある一帯である。
何故「水無」と呼んだかについて、私見ながら考えてみると……。
水無は、一帯は岩が露出しているなどして、農地には不適な所であった。
一方千刈田は下モ川の水を利用して開田されていたものであろうが、
元々下モ川の水は、ヒドロ(後ロ田)の水田に利用される。
この川の水量は少ない。
千刈田は、その残り水や地下水(暗渠の水)などを利用していたが、
水量が足りないので、下モ平や水無にまで届かない……。
これらのことから、水田としての利用がなされないので、
「水無」と呼ばれていたのではないだろうか。
[地図上の位置(水無辺り)→]
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