「松館今昔:菅原神社のこと」

摂社末社

 摂社(せっしゃ)とは、ご祭神と縁故の深い神を祀った神社(祠)のことで、 末社(まっしゃ)とは、それより小さな神社(祠)である。
 何故に、次のような神社が摂社末社として鎮座されたのか、 私見ながら記述してみたい。
 しかし、これらの摂社末社は今はない。
 
①八坂神社
 記録によれば、「勧請年代不詳、天明二年(1782)三月十日再建」とある。
 
 京都に鎮座する八坂神社(やさかじんじゃ。祇園社のこと)は全国の総本社で、 ご祭神は牛頭天王(ごずてんのう)である。
 牛頭天王は、疫病を撒き散らすと同時に親切に迎え入れた農民に対しては 万病に効く術を授けたとも云われている。
 「蘇民将来子孫之門」の話として、次のように言い伝えられている。
 昔、牛頭天王が老人に身をやつしてお忍びで旅に出た時、とある村に宿を求めた。 このとき兄の巨丹将来は裕福なのに冷淡にあしらい、弟の蘇民将来は貧しいのに やさしく迎え入れてもてなした。そこで牛頭天王は正体を明かし、 「近々この村に死の病が流行るがお前の一族は助ける」とのたまった。 果たせるかな死の病が流行ったとき、巨丹の一族は全部死んでしまったのに、 蘇民の一族は助かったと云う。
 
 ここ松館では、春と秋の彼岸のとき「百万遍」念仏として、主として婦人たちが この行事を担当する。私は法印家(宮司)として、このとき「祖霊祭」を斎行し、 「蘇民将来子孫門」のお札をお配りしている。
 因みに谷内の晴澤家、小豆沢の橋本家にはそれぞれ八坂神社があり、屋号を「天王」 と称している。
 
②琴平神社
 記録によれば、「勧請年代不詳、享保十三(1728)年六月十五日再建」とある。
 
 当菅原神社のご祭神菅原道真公は、仁和2年(886)、讃岐守(今の香川県)を拝任、 寛平2年(890)任地讃岐国より帰京した、とされている。
 この讃岐うどんで知られている讃岐には、長い歴史を持った有名な琴平神社 (ことひらじんじゃ。今の金刀毘羅宮)が鎮座している。 ご祭神は大物主神と崇徳天皇である。
 大物主は蛇神であり水神又は雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、 酒造り(醸造)などの神とされている。
 崇徳天皇は、保元の乱(1156)で敗れて讃岐の地に流された悲劇の天皇とされている。
 
 以上のような「ご縁」で、当菅原神社の末社として勧請(かんじょう) されたものであろう。
 
③天手力男命
 当家の記録の中に、(天の)手力男命(たじからおのみこと)を祀っている ことが書かれている。
 神話には、天手力男命は、岩戸隠れの際は岩戸の脇に控えており、天照大御神が 岩戸から顔をのぞかせたとき、天照大御神を引きずり出し、この世に明るさが戻った、 とされており、そのことにより、力の神、運動競技の神として信仰されている。

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