(0) 桃枝 参考:鹿角市発行「鹿角市史」など
桃枝(どうじ、道地とも)は、古くから交通の要所とされていた。
[地図上の位置→]
「吾妻鑑」によると、文治五年(1189)七月、源頼朝は自ら二十八万四千騎を率いて奥
州藤原泰衡追討に出兵した。
奥州平泉に栄華を誇った藤原氏も、源頼朝の大軍に抗すべくもなく敗北した。即ち文
治五年(1189)九月、藤原泰衡(やすひら)は平泉の柵に火を放って逃げ、数千の兵を
率い蝦夷島(北海道)に渡ろうとして出羽国比内郡贄柵(にえのさく、大館市二井田)
に立ち寄った。泰衡は、贄柵主の郎従・河田次郎の逆心にあって謀殺され、北方の王者
として君臨した平泉藤原四代は滅亡した。
つまり泰衡は、蝦夷島に渡るには糠部(ぬかのぶ、岩手県北部辺り)郡から比内郡贄
柵に行くことになるのであるが、途中鹿角郡を経ることとなる。即ち鹿角路は、岩手県
八幡平市兄畑から兄川(米代川の支流)を遡り、袰部(ほろべ)を越えて夏井〜長牛〜桃
枝に至り、巻山峠を経て比内郡へ出たものとされている。この鹿角路は、鹿角郡内では
別掲「古道 − 鹿角街道(細野道)」と重なるものであった。
|