GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

山の枯木のつぶやき(5)

 あの戦争当時、鉱山に働く人達(捕虜など)の一切を統括するのは、鉱山の勤労課(昭和十九年七月から課名変更。その前は労務課といゝ、戦後は労働課といった)の仕事であった。その責任者は、安井さんと言う東北大を出た若い人だった。課長は招集されて居ない。一切の重荷は、課長代理であった彼の肩にかゝった。まだ三十前だったと思う。
 
 戦後労働運動が彭湃(ほうはい)として起り、労働組合が次々と結成されていった。彼は労働組合の規約(案)も社員組合の規約(案)もつくってやったという。そして翌年の昭和二十一年五月、三菱を退職されて、ふる郷北海道に帰られた。その手には、生後八ヶ月(昭和二十年一月生まれ)、ハシカで亡くなったという長女みゆきさんの円通寺に預かっていたであろう遺骨を抱いて(昭和二十年終戦の年だ。劇務に追われて病に苦しむみゆきさんをゆっくりみて上げることもできなかったろう)、奥さんは生後三ヶ月であった次女の雪子さんを抱いて、俺たちを捨てゝ行くのか、と多くの人に別れをおしまれ、見送られて花輪駅をたって行かれたという(この雪子さんは、平成四年九月、生まれた家に行ってみたいと、ご両親(安井さんご夫妻)と一緒に尾去沢を尋ねてこられました)。
 
 今、尾去沢では安井さんを直接知っている人は、一人か二人よりいなくなったと思う。私に若し安井さんてどんな人だったと聞かれたら、「いゝ人だった」とより答えられない(私には、何になった等という肩書きは関係ない)。私は兵隊に行く前二年間ぐらいしか、事務所で一緒でなかった。直接仕事上の上司でもなかったが、青年学校の先生だった。学科は何んであったかおぼえていないが、わかりやすかったという記憶だけがある。
 
 安井さんは、故郷に帰られて間もなく村長さんに担ぎ出されて(といういゝ方は失礼だが)、昭和二十二年四月から村長さんを十一年、その後社会党から出馬、国会議員として種々活躍され、最後は社会党副委員長、衆議院副議長をされて、平成二年二月引退され、再び故郷に帰られた。
 
 そして二年後「冬の日愛すべし − 私の回想」という本を出された。その − はじめに − という中に「中国の古典である春秋左氏伝の注にある「冬日可愛」の四字を私はよく色紙に書くので、それをそのままこの本の表紙に写したものである。太陽はわれわれにとって、つねに大切な存在だが、夏の太陽は暑くてさえぎらなければならないけれども、暖かくして親しまれるのは冬の太陽である、という意である、云々と。
 
 安井さんは、いつ左氏伝を読まれたかは知らないが、昔中学生になると、漢文の時間があったとか聞いたことがあるが、中学校のときか、高等学校の時に読まれたのかもしれない。それが一生を貫く信念というか、人間として生きてゆく上での信条というか、私にはうまくいえないけれども、先の言葉に続いて「私はつねに政治に冬の太陽の役割を念じながら活動してきたつもりである」といっておられる。それは政治の場だけでなく、日常生活の中にも、尾去沢にいた時代にも、その心が生きていたものと思う。冬の日愛すべし、ほのぼのと暖かい日差しには、人が集まってくる。
 
 だから私は戦時中、次々に集まってくるいろいろな立場の人達にどう対処するか、どう処遇するか苦慮したろうと思う。軍国主義一辺倒の時代、物のない時代、何にもかも乏しい配給に頼る時代、冬の日愛すべし、その心はきっとどこかに生きていたろうと思う。それは書いたものにも、話しにも残っていない。でも私はそう思う。
 
 詩人は詩人の目で、第三者は第三者の目で、厳しく現実を見つめているだろう。それは正しい姿を伝えているだろう。それはそれでいい。ただ私は、長屋のおかみさん達の一把のワラ束に込められた心を大事にしたい。

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