GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

山の枯木のつぶやき(5)

 私は、シベリアから帰るときは、バイカル湖の西、ニジネウジンスクというところにいた(日本海から見れば、ウラル山脈との間の中間地点くらい)。何日か汽車にゆられて、私達がシベリアに入って初めて山開きをした地獄伐採といわれたパゥタルウイハの駅についたとき、一緒に山開きした同じ班にいた仲間が三〜四人乗ってきた。「オメエ達まだこゝにいたのか」「ンだ」、「田中どうした」「田中は死んだ」「誰か爪っこか、髪ッコ取ってくれていなかったか」。誰も取っていなかった。そんなゆとりはなかったろう。彼等も生きるために必死だったろう。彼等はダワイ、ダワイとせかされて、別の車輌に乗っていった。私は彼の住所を知っていた。
 
 そのパゥタルウイハ(そこはバイカル湖のそば、イルクーツクからシベリア鉄道を四十キロ?くらい東にもどったところ、と言ってもバイカル湖が見えるわけではない)で、伐採作業をしていた或る日曜日、どこの誰が死んだか知らないが、私達の班からも一人墓掘りの手伝いに出ろといわれて、なんとなく私が行くことになった。そこは山をしばらく下がった少し平らな台地のようになっている所だった。誰のか知らないが細い白樺の木を削った三尺くらいの墓標のようなものが立っていた。
 
 私達(四〜五人)は積もっている雪をはねのけて、先ず火をたいて凍った土をとかして少しずつ掘った。剣スコップやツルハシなどで、火をたいては掘り、たいては掘りしたが、その日は五〜六寸より掘れなかったような気がする。次の日、私はまた伐採に出たので、どれだけの深さに掘ったかは知らない。私は一度も葬式に立ち合ったことはなかった。棺箱は作ったろうか。私達のいた山では、板材は見たことはない。駅の方に行けばあったかもしれない。材料さえあれば、大工さんがいなくても作れたろう。最悪、最低の条件を考えれば、普段着ていた服をそのまゝ着て、寝ていた一枚の毛布にくるまれて凍土を掘った穴にそのまゝ埋められたろう。いろいろの職業の人がいたから、和尚さんはいたろう。私は考えてみた。たとえ棺箱はなくても木はある。細い丸太を底にしきはらべて、その上に遺体をのせ、脇も丸太を積み上げて、蓋も丸太をならべて埋める。とか、そんなことをしている余裕も時間もなかったろう。
 
 私達は、文官屯に集結させられて、しばらくして新しい部隊編成があり、大隊単位でシベリアに送り込まれていった。私達も次、次といわれながら二〜三度延期になった。
 私達の大隊は、第何大隊だったか忘れたが、構成員は、初め私達三十人くらいだった。大隊長は佐藤大尉という陸大出とかいう三十歳くらいの人で、ロシア語ができた。彼は私達に言った。これからとういうことになるかむわからないが、最後まで一緒に頑張ろう、と。
 その私達が佐藤大尉から切り離されて、よその大隊と一緒になって明後日?出発といわれた。私達はよその大隊、多分召集されたであろう、年とった将校の後をついて行きたくない。おい田中班長、お前行って、佐藤隊長に約束が違うと言ってこい、と。しばらくして、彼はもどってきた。行かなくてもよくなった、と。がその行きつく先が地獄伐採とは、誰も思わなかった(どの部隊と行こうと、それぞれ苦難の道だったろうが)。
 
 私達が満州里をこえて、シベリアに入ったのが二十年十二月一日だった。物忘れに自信のある私が、この日だけは忘れまいと心の中でくり返した(奇しくも、私達がナホトカから船に乗って日本海をこえ、舞鶴に上陸したのが、二十三年十二月一日だった)。
 
 私達の仲間が死ぬと、その葬儀は大隊本部の方で取り仕切ったろう。私達はこの大隊長を信頼し、頼りにしていた。彼はそのときできる最善の方法をとって、死者を送ってくれたろうと思う。田中も私達と一緒に、この大隊ができたときの最初の部下だった。佐藤隊長もきっと丁重に彼を葬ってくれたろうと思う。
 
 田中は私と同年兵だった。所属部隊は違っていたが、奉天(今の瀋陽)で終戦になり、少し離れた(四十キロ?)ブンカントン(文官屯?)という張作霖(張学良の父)がつくったとかいう東北大学の跡に集結させられたとき一緒になった。この時の輸送?指揮官は大森(三彦?。東京の人)という憲兵大佐だった。彼はロシア語もよく出来たので、あっちこっちで起きるトラブルに、馬でかけまわって対処しながら、私達を連れて行った。もちろんソ連軍もついてきていたろう。私達は何にが何んだかわからないまゝ歩いて行った。後日談みたいになるが、私達の佐藤大隊が出来た頃、何んで私達の隊に、そういってきたのかわからないが、大森大佐の当番兵を一人出せといってきた。私達といってみたところで、いわゆるロートルといわれる三十五六の人達ばかりだ。若いのは私と田中ぐらい。彼は伍長だったので、私達の班長になっていた。結局私が行くことになった。当番兵というのは、洗たくしたり食事の世話したり、要するに身のまわりの世話する役目だ。二ヶ月近くたった或る日、今日の午後だか、明日の朝だか忘れたが、ソ連軍の取調べがあって、行くから身のまわりの物まとめてくれといわれて、着替のシャツとか靴下とか新しくもらえる物はもらつて、糧秣(りょうまつ)担当の方から白砂糖もらって新しい靴下二本に詰めて、将校行李を荷づくりした。彼は片手に軍刀を持ち、片手で行李をかついで出て行った。その荷物、私が背負ってゆきます、というわけにもいかず、ご苦労さんであります、と敬礼して、その後ろ姿を見送るしかなかった(その後どうなったか、私にはわからない)。
 とにかく、憲兵は一番先にねらわれたらしい。
 
 前置き?が長くなったが、こうして一緒にシベリアに渡り、あの地獄伐採といわれたパゥタルウイハの山の中で、二人で一丁の鋸を引合って伐採作業をした。夜は同じ一枚の毛布にくるまって、ふる郷の話しをした。私はキリタンポの話やダマコモチの話もした。彼はどのようにしてあの世に旅立ったろうか。今でも秋になると、フト思うことがある。彼にもこのキリタンポ一口食べさせたかった、と。
 
 先きにも書いたが、私の下タ沢の隣りの家(本家)の息子は、同級生だった。私が兵隊に行ってすぐ後に彼は招集されたらしい。フィリッピンに渡って間もなく戦死したという。終戦後間もなくであったが、時期は忘れたが、その義夫(といった)の戦友だったという人が家に尋ねてきた。二人ならんで戦闘中(多分腹ばいになって、敵の玉をさけていた時かもしれない)、敵の砲弾の破片が彼を直撃して戦死したという。その話を聞いた父親は、半狂乱のようになったという。私がシベリアから帰ってきたときは、死んではいなかった。私はいまだに彼(田中)のふる里を尋ねれないでいるまゝに時が過ぎてしまった。
 
 若し今、お前達三年もシベリアにいて、毎日何シャベッていたと聞かれたら、私は「腹へった」。「エサイキて」。この二言につきると答える。
 
 あの戦争という狂気の間をはさんで、私達は捕虜という名のもとに、シベリアに行った。中国の人たちは労工狩りといわれて、ふる里を狩り出されて、日本に来た。西に行ったかひがしに行ったかは違うけれども、同じような苦しみを味わった。

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