GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

山の枯木のつぶやき(5)

 あれから七十年近い年月が流れている。今度息子さんが日本へ、尾去沢へ行くという。彼の胸に去来する思いは、何んだろうか。彼等には日本(尾去沢も含めて)に対して怨みこそあれ、一片の恩義もない、が彼は一本の掛軸を円通寺に贈った。
 
 あの絵は絵としての価値は、私にはわからない。また、わかる必要もない。たゞあの絵に込められた思いは何んであったろうか、彼はあの絵(讃)の中に自分の生きてきた人生の姿を見たのかもしれない。竹はどんな重い雪でもはねかえして青々として生きる。梅はどんなきびしい寒さにも耐えて凛々として美しい。
 
 あの絵は、いつ、どのようにして彼の手許にあったのか、その由来は私は知らない。たゞ、俺は負けなかったぞ、お前達の分も頑張ったぞ、今やっと孫を抱いて花を見、ふる郷の山々を眺める心のゆとりも少しはできた、と、異国の地で、逆境の中で、一緒に苦労して、望郷の思いを胸に抱いて、病に倒れ、無念の死をとげた仲間たち、遺骨を半分残して帰路についた彼等は、どんなにつらく心残りだったろう。
 
 この掛軸に記された思いは、一緒に帰れなかった仲間への鎮魂の祈りを込めた、きびしかった人生の報告だったろう。そして約束を守って、亡くなった仲間達の後生の冥福を祈ってくれていたであろう円通寺の道三和尚さんに有難うございます、というお礼の心を込めた掛軸であったろうと思う。それは、お前の勝手な思い込みだ、うがちすぎだといわれるかもしれない。それはそれどいゝ。たゞ私はそう思う。
 
 彼等は花を手向け、香を焚き、紙銭を燃やし、地に跪き、天を仰ぎ、地に伏して三拝九拝と拝んでいる。そのひたむきな姿を見ていると、戦争とは何んだったのか、平和とは何んなのかと更めて考えさせられる。時は流れ、世は移り、円通寺も今は四世、芳徳和尚さんの時代になった。私はいゝました。円通寺の和尚さんは、今も毎年お盆には拝んでおります、と。
 
 円通寺に慰霊碑のあることは、彼等も聞き知っていたゞろう。彼等は故国に帰るときに、おそらく皆で五十銭、一円と集めただろう。二百円(当時としては大きい額である)のお金を「永代供養料」としてお寺に納めて行ったという。「永代供養」、そういう風習が中国にあるかどうかは知らないが、私達は遺骨の半分より持てない、今後お墓参りにも来れないだろう。和尚さん、後はよろしくお願いします、と仲間達の後生の幸せを祈ってお願いしていった。そこには国境を越え、民族の違いを超えた、お互い人間として心の通い合うものがあったろう。道三和尚さんを信頼してからこそ、永代供養料として大きなお金を納めていったろう。
 
 円通寺の墓地にお墓のある人でも、慰霊碑のあることは知っていても、その碑文をまともに読んだことのある人は少ないのでは、と思います。まして外の人は慰霊碑のあることすら知らない人が多いのではと思い、こゝにその碑文を書いてみます。
 
  慰霊碑(これは碑文の上に横に大きく書かれています)
 昭和二十年(民国三十四年)秋田県尾去沢鉱山に於て勤労の中華人民共和国(当時中華民国)三春(山東省玉家荘出身)以下七十余名は、傷しくも遥か異国の地にて殉難死亡しました。これ等殉難者の遺体は、死亡の度ごとに尾去沢鉱業所が施主となり、中国人の会葬のもとに当円通寺に於て葬儀を営み、火葬に付して、当寺に納骨依託されました。
 終戦後、中国人達が本国へ引き揚げることになりましたので引揚隊員の申し出に依り、各霊ごとに、別に小骨箱を作って分骨し、昭和二十年十月三日、当寺に於て慰霊法要を営んだうえ持ち帰りました。残された分骨は引き揚げ隊員の申し出に依り、当寺の墓地に合葬され供養塔婆一基を建立し、永代供養料貳百円を寄進して爾後の回向を当寺に託されました。
 たまたま昭和二十八年三月二十五日、先に合葬された分骨について本国送還の申し出がありましたので関係者立合のもとに、これを発掘し、皆七十九霊収骨して責任者に引き渡し送還しました。
 分骨合葬の場所は、当時のまま暫く残されて現在に至っております。
  尚、毎年盂蘭盆会には、殉難者のため当寺に於て施餓鬼法要を営んでおります。
  ◎昭和二十年八月十五日終戦
  ◎米兵殉難死亡四霊位(昭和二十年八月二十二日まで円通寺骨堂保管)
  ◎昭和二十年八月二十三日返骨
    昭和三十二年十二月十一日
      秋田県鹿角郡尾去沢町
       円通寺住職 第二世 岩館道三 合掌

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