GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

山の枯木のつぶやき(5)

 昨年十一月三十日、尾去沢鉱山に縁りのある中国の方などが、石切沢坑口の前で、亡くなった人達の慰霊祭などを開き、円通寺の墓地にある亡くなられた人達の慰霊碑にお参りしていきました。
 
 このとき、任朋利(レンポンリー。五十八才)さんという人(尾去沢関係はこの人一人でした)、円通寺に一本の掛軸を贈って行かれました。通訳を介して何にかいわれたと思いますが、私にはよくわかりません。
 
 今年も例年のように元旦総長五十枚(山)に登りました。私は三年程前からマインランドの前で初日の出を迎えることにしましたので、登った人達に厄除けのお守りとして、手のひらにのるような小さいものですが、その年のエトの置物をお上げすることにしました。その箱の中に今年もよろしくお願いしますと、新年の挨拶を書いた中に、こんなことを書いておりました。
 
 「……この人達が帰りに円通寺の墓地にある、尾去沢で亡くなった人達の慰霊碑に花を供えてお参りして行かれました。この人達が帰るときに円通寺に寄り(来た時もはじめに円通寺に寄ってから慰霊碑に行かれました)、奥さん(住職さんは不在のようでした)に、中国のおみやげだといって、一本の掛軸を渡されました。それは、いわゆる水墨画というのか、竹や梅の花などが書かれており、讃も入れられていました。二行、二十八字、漢詩なのかもしれません。字もさらさらと書かれてので、私には全く読めませんが、中国語がわからなくても、字がわかればおゝよその意味が少しでもわかるのではないかと思い、今、解読?をお願いしているところです……。」
 
 その解読をお願いしている方が、おそくなりました、とこの間(六月下旬)その解読したものを届けてくれました(私一人では心もとないので、知っている先生にも見てもらう、といっていましたが、その先生、病気で入院されていたとかで)。早速コピーして、あの掛軸の裏にでもはっておいて下さいと、円通寺にお届けしました。
 
 解説
<七言絶句>
一行目 一生従未画梅花不識孤山處士家今日
二行目 画梅兼画竹歳寒心事満烟霞  板橋 印 印
 
◇読み方
 一生(いっせい)未だ梅花の画けざるに従い 孤山(こざん)処士の家を知らず。
 今日梅を画き、竹を画いて 歳寒心事 烟霞(えんか)に満つ
 
※ 孤山 − @中国浙江州(せっこうしゅう)の湖の中にある島の名。A一つだけぽつんとある山。また人里はなれた山。
  故山 − ふるさとにある山。転じて「故郷」。
※ 寒心 − @胆を冷やすこと(寒心に堪えない)。A心が恐れおののくこと。
  歳寒心 − 胆を冷やすことが多い歳=老身・老心。
○ 烟霞(えんか) − けむりとかすみ、転じてぼんやりとかすんで見える風景(広辞苑)。
 
◇意訳
 私はこれまで梅花を画かずに来たが、「孤山処士の家(=故郷の山)」を思い(由緒があるような気がする、一つポツンとある山をみて)、知らず、自然と今日は梅竹を画いて烟霞の中で老心ながら心は満ちている。
 
 私はこの掛軸の写真と解説を何度か見ているうちに、フト思った。この詩はこの掛軸を持ってこられた任朋利さんのお父さんの今の心境ではないだろうかと。八十八歳、健在でおられるという。八十八歳といえば、私と同じような年代だ(私は八十九歳)。そのお父さんがふる郷中国に帰られたとき、ふる郷はどうなっていたろう。待っている家族がいたろうか。幸い私には三人の妹が待っていた。私は満州にいたので、シベリアに行ったろうとは思っていても、生きているのか、死んだのかわからない。でもきっと生きて帰ってくると信じて(信じざるを得なかったろう。その思いを力にして)。私達の母は昭和十四年病気で死んだ。父は終戦の年が明けた正月三日脳卒中で、力になる弟は病気でその翌年(二十二年)一月死んでいた。終戦のとき、妹は数え年の二十、死んだ弟は十七、二人の妹は十五と十三だった。
 私の三ツ上の従兄弟は南方に行く途中、海に沈み、同じ年の従兄弟はフィリッピンで戦死した。私は外の人のことはよくわからないので、自分のことを書いたが、私のことなどまだまだ序の口にも入らない。いかに多くの人が水漬く屍、草むす屍、お国の為にと、その一言にどんな苦しみにも悲しみにも耐えて、苦難の道を突き進んでいったことか。
 
 故郷に帰った彼等は、ひたむきに働いたんだろう。花も景色も見る余裕もなく、やがて嫁さんをねらい、子供も生れ、今は孫の時代になっているだろう。

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