GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

山の枯木のつぶやき(5)

 私も先に言ったように酷寒、飢餓、重労働、シベリアの三重苦といわれる中で三年暮らしてきた。が、シベリアの民間人(と私達はいった。いわゆる一般市民)には意地悪されたことも、いじめられたこともない。もちろん接触する機会も少なかったが、今はなつかしい思い出だ。いつかその話しをする日もあるかもしれない、と思ったが……、少し長くなるが一つ二つ書いてみたい。
 
 そのシベリア生活の後半、或る場所に行ったとき、日曜日(日曜日は仕事は休みだった)友達と二人、仕事に使う鋸(二人引き)一丁かついで村(町?)の薪切りをさせてくれるところを探して行った(私達が、宿舎から出て行くことをあまりうるさくいわれなかった。もちろんコッソリだが)。大ていの家にはペチカの薪にする二メートルくらいの薪が積んである。程んど白樺だった(シベリアというと、タイガといわれる針葉樹を主とする大森林となるが、私達の行ったシベリア鉄道の沿線はそんな感じはなく、大きくなる木は赤松(これが主体)、落葉松(そんなになかった)、白樺、と私達が青ギリと適当に言ったスルッと大きくなる木(上半分くらい幹の色が黄緑だった。花輪高校に行く途中(地なみ)の畑の縁にそれらしい木が十本以上あったが、今は切られてない。ボプラ?)がたまにあるだけで、あとは名も知らない潅木だった。外にも大きくなる木があったかもしれないが、記憶にない。そうだ、五葉松の林があった。ロシアの将校に引っぱられて五葉松の実を取りに行った話しは、またいつか)
 
 その白樺を四つくらいに切らないとペチカに入らない。話がつくと二人で薪切りをした。昼になったら、お前達も入って一緒に食えという。私達は昼食を持っていないことは彼等も知っている。ジャガイモだ。もちろん彼等の昼食もジャガイモだった。そして手まね足まねの会話がはじまる。親を指したり、子供を指したり、指を折ったり伸ばしたり、親がいるか、兄弟がいるか、女房は、子供は、など四苦八苦しながらそんな話しをした。仕事が終わって帰るときには、薪を切った代償としてブリキの朝顔バケツ(私達も水を汲んだり、小学校の掃除バケツでもあった)にジャガイモを山盛りいっぱいくれた。
 
 こうして後半は、何か所か動いて歩いた。或る建設現場?に行ったとき、私達の班は経験者が多いということで、山に分遣になって伐採をすることになった。山の原っぱのようなところに空家がポツンと一軒残っていた。私達は炊事係一人と機械係(鋸やオノをとぐ仕事=カジヤだった)一人を残して仕事に出た。そこはパゥルタルウイハ(最初に山開きをした)のような本当の山ではなく、丘陵地帯のようなところだった。町から毎日馬車が五〜六台、木を取りに来た。積む木があれば、ノルマはあまりうるさくいわれなかった。
 
 食糧は一日、魚は何グラム、肉は何グラム、油は塩はと色々基準はあったと思うが、私は炊事係をしたことがないので、わからない。私達を管轄している本部?からどのような手を経て配給されてくるのかわからないが、私達の本部から何日分と配達されてくると、それを適当に按分して食った。そのうちに塩マスが来た。北海道の新まきのような大きなものではない。それを小さな切身にしてチョボチョボ食ったとこでたいして腹の足しにもならない。またくることを期待して一人に一匹づつ当るようになるのでとっておくことにした(食糧は一週間単位に配達されたと思う)。腐らないかって?大丈夫だ、シベリアの冬だ。冷蔵庫の中に住んでいるようなものだ。
 
 私達の住んでいた所は町?に出る通り道になっているみたいだ。雪の上に人が歩いたような跡がある。が私達は歩いている人を見たことがない。仕事に出ているせいかもしれない。
 
 いよいよ一人に一匹当るようになった。その日曜日、町とは反対方向に細い雪道らしい跡をたどって行ってみることにした。あっちの方では犬の鳴き声が聞えることもあるからきっと部落があるだろうと、四キロくらい行ったら、戸数二十戸くらいの小さな村があった。が、人っこ一人いない。ひっそりしている。そのうち二階の窓がそうっと少し開いて、小さい女の子がのぞいている。しめた、と袋に入れていたマスクのしっぽの方を右手でにぎって勢いよくつき出し、左手の指と右手の指で丸をつくり、カルトウシカ(ジャガイモ)と叫んで左手をこっちの方へオイデオイデをした。私達の意図が通じたようだ。そのうちに大人の人も出てきて塩マスとジャガイモを交換してもらった。一匹やると、さっき言った朝顔バケツに山盛りいっぱいくれた。それが適正な相場かどうかはわからないが(私達はそんなことは考えてもみなかった)、私達はうまくいったと喜んでジャガイモの入った袋をかついで帰った。ハンゴウに入れると、もり上げて五〜六杯はあった(私達はいつどこで作ったかおぼえていないが、みんなひも通して口を結べるようにした四〜五十センチの袋を作業に出る時以外はいつも持ち歩いていた)。
 
 一冬の間だったし、そんなに塩マスがあるわけでもないので、何度も行けなかったが、三度目くらいの時だったろうか、私達(私は盛岡出身だという、私より三ツくらい年下の向井田という人といつも組んでいた。一緒に帰ってきた)が入った家は、五十代の男の人一人だった。家族のいない一人暮らしのようだった。まあ入ってあたれ、といった具合いだ。そのうちにその人、オレ用事があって一寸出かけてくるから、お前達ペチカを燃やしてルス番をしていてくれ(四苦八苦の会話)という次第だ。中々帰って来ない。二時間近くして、オヽ寒い寒い、ご苦労さん、といった調子で帰ってきた。お前達、オレのいない間に何にか家の中をカキまわしてイタズラしなかったか、といった目つきもそぶりもない。私達もおそくなるから帰っていゝかといったら、いゝよ有難とう、といった具合だ。私達はお互いに「スパシーボ(ありがとう)」「ドスビターニャ(さようなら)」といって帰ってきた。

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