GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

山の枯木のつぶやき(5)

 私し三年シベリアで暮らしてきた。前半は伐採だったが、後半は何箇所か移動して雑仕事をした。春にジャガイモ畑を通ると、冬の間凍っていた掘りこぼした親指の先くらいの小さいジャガイモがとけてシナシナになって土の間から顔を出している。私達はそれを大事に拾ってきて煮て食った。
 伐採をしていた頃、私達の所から二キロくらい下(さが)った所にロシアの囚人(と私達はいっていた。どんな仕事をしていたか知らないが、そのうちの若い人が一人二人、私達の切った木を検尺にきた)がいた。その人達は、私達と同じようにテント生活(私達より少しましなような気がした)をしていた。何にかの用事で山を下っていった人が彼等の捨てたジャガイモの皮を拾ってきて、煮て食べていたという。食える物は何んでも食った時代だ。しなびたジャガイモも大事な食糧だったろう。
 
 私は多くの共感をもちながら、その詩集を読んでいった。終り近くになった頃、「命の重さ」ということで、鉱山の残土運びの話しが出てくる。その馬が力つきて倒れる話だ。捕虜達は、碌に食べ物も与えられず、寒さを防ぐ靴もなく、ワラを足に背に巻きつけただけのものだった、と。そのとき私は咄嗟に思った。そのワラ束は誰がやったんだ、と。きっとそれは長屋のおかみさん達の精一杯の心なんだろうと。そのワラ束は長屋の冷たい隙間風を防ぐために農家の人から手に入れていたものかもしれない。私達自身ろくすっぽ食う物も着る物もなかった時代だ。私達の多くは、小学校を卒業すると鉱山に働きにいった。そして鉱山で一生を送った。そんな時代だった。私達には学はない。だから難かしい理屈は分からない。でも私達には心がある。
 
 私はその頃、兵隊に行っていなかったので実情は知らない。でも二百人も三百人もの人がそんな姿で歩いていたろうか。中には何人かいたかもしれないが、捕虜達には自分のできる仕事(技術経験)を聞いて、できるだけそれに合った仕事をさせたという(何人でもなかったろうが)。中に軍医が二〜三人いて、その人達は寮に残らせて、仲間の健康管理に当らせた。という話しも聞いたことがある。
 
 平成三年頃、鹿角市では市史編さんの資料にするため、各地区の民俗をいろんな項目に分けて、聞書を集めたことがある。その中の「尾去沢鉱山とくらし」という項に、こんなことが書かれていた。「朝鮮人には米飯食、中国人にはマントウ、米英人にはパン食が与えられていた」、と。もちろん三度三度そんな食事は出なかったろうし、どの程度の割合で出たかもわからないが、これを書いた人は、当時十四〜五歳の少年だったと思うから、彼も腹がへっている。米飯はわかるとしても、マントウやパンはうらやましく、どんなに食ってみたいと思ったろうか。  
 はじめ、私は「残土」という言葉を見たとき、なんでいらなくなった土を鉱山に運んだんだ、と思ったが、その次に「粘土質」とあったので、粘土を運んでいたんだ。それならわかると思った。鉱山では粘土を使っていた。
 
 私は八幡平の松館の側の山に、いゝ粘土が出る山があつて、そこの粘土を鉱山に運んだ、という話しを聞いたことがある。山を下りて村に出る、道は米代川にそっておゝむね平坦になる。今の中学校のあたりから上り坂になる。当時は若い馬はほとんど軍に徴用され、残っているのは、私達がホッケ馬といった、年とった馬ばかりだったろう。彼等はやせたケッチ(尻)をたたかれて、気合を入れられて、必死になって頑張って、力尽きて倒れたろう。そんな時代だった。
 粘土=粘土は製錬の溶鉱炉を密閉するのに使っていたと思う。どこをどのように密閉したか、私は事務所にいたので、現場のことはほとんどわからない。
 もう一つは、坑内で発破をかけるときに使っていた。岩盤に穴を掘って火薬を詰め、その後に粘土で作ったアンコを詰めて密閉した。具体的なことはよく知らない。これも宿題だ。
 アンコ=字で書けば餡コか。粘土を固めにこねて、直径三センチくらい、長さ十五センチこらいの棒状につくる。そのまゝ箱などに重ねるとお互いにくっつくので、カンテラに使うカーバイトの粉(燃えカス)をかわかして、餅をつくるとき、のし板に取粉をしくようにしいて、その上をころがしていた。女の人達の仕事であったと思う。

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