GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

山の枯木のつぶやき(5)

 戦時中から戦後にかけて尾去沢で暮らした女の人が「わたしの記憶」という詩集を出した。そこには料理(殺される)される鶏の話し、屠殺場に惹かれてゆく馬の話しなども出てくる。  私は昨年の十一月だったか十二月だったか、米代新報にこの本を紹介する記事が出ていたので、早速買った。
 
 なつかしかった。そんなこともあった。こんなこともあった。ウン、ウンとうなずきながら読んでいった。そうしたら、「祭りのとき」という七夕のときの詩があった。”さっささ、ささまめこ、さどつけて、けんばめー”。そうだ私も子供達が小さいとき、笹竹を取ってきて、飾りつけしたり、小さい灯籠を作ったりして、一緒についてまわったこともあった。そして最後の一節、「十数年後、鉱山は廃鉱になった」、なにおッ…とカチンときた。廃鉱の「廃」とは役に立たないゴミとなって投げ捨てられる、ということではないか、いつ尾去沢鉱山はゴミになった。私達は閉山とはいったが、廃鉱とか、そんな言葉は使ったこともないし、思いもつかなかった。そしていう、「みんな蹴散らした豆のように、ちらばっていなくなった」、尾去沢の人は誰一人そんなことは思わなかったろう。去る人も残る人もどんな思いだったか、蹴散らした豆のように散らばっていなくなったのは自分自身のことじゃないか、と思った。当時の私達はどんな思いで閉山に向っていたか。それは閉山してから二十年、古遠部、松木も含めて三山を偲ぶ会をやったとき、私が閉山当時を思い起こして、「千二百年の歴史を閉じた男達の小さな物語り」として書いた「閉山こぼれ話し」に譲るとして。私達は親子代々尾去沢で暮らしてきた。尾去沢をふる郷とする人間だ。あの人達は、どんな縁があって尾去沢に来たか知らないが、戦時中何にかのつてで暮すため、一時しのぎの仮りの職場として尾去沢にきたんだろう。だから新しい仕事の目どがつくと何んの未練もなく、それこそ蹴散らした豆じゃなくて、尾去沢を蹴とばして出て行ったんだろう。考えてみれば私達にとっては赤の他人だ。他人がどんなことを思おうと言おうと目くじらを立てることもないか、と思ったら少し腹の虫がおさまった(といっても私はその人に何んのうらみもない。その人はその人なりに人生の新しい目標を立てゝ進んでいったろう)。
 
 そして読んでいくと、「食べられなかったジャガイモ」というのが出てきた。
 そこには、捕虜達のことが書かれている。そんなこともあったんだなー、と思って読んでいくと、捕虜達が帰った後、収容所の掃除に行った話になる。しなびた小さなジャガイモがころがっていた。掃除の後、茹でて食べたという。終戦と同時に彼らには空から色々な物資が投下されたという。彼等はもう小さいジャガイモなんか食べる必要もなかったろう。でもそれは私達にとっては大事な食糧だ。長屋のオカミさん達はおいしそうに食べててたろう。でも彼女の母は「私は食べられなかった。お前も食べなかった……」と。この親子はどんなことを考えて、どんな目でこの長屋のオカミさん達をみてたいろうか。

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