GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

山の枯木のつぶやき(5)

 聞くところによると、保存会の人達も難儀をしているようだ。会員の高齢化のこともあるだろうが、年々会員が減ってきているとか、何せこの鶏は、私達がキリタンポのだしにするために、外で放し飼いにしているのとは訳が違う。エサ代はもちろん育てるにも手間ひまがかゝる。台の上でおごそかに謡っているようだが、のぼらせるのも、台の上で謡わせるのも、何度も訓練を繰り返させなければならないという。
 市(教育委員会)では、保存会に助成金を出しているとは思ったが、喜んで出しているのか、市の財政事情も苦しいと減額の方向なのか、どの程度の額なのかも知らないが、そのうちに岩手県か青森県に本家をとられ、キリタンポじゃないけれども、あわてて鹿角が原産地だと旗を立ててみたところで手おくれだ。
 
 声良鶏は鹿角が原産地だ、いわば発祥の地だ。私たちはこのことを大事にしてきたいと思う。日本中どこに行こうと声良鶏のふる郷は鹿角だ、私達はただ単に保存会や愛好者の人達の善意や努力に負んぶするだけでなく、私達自身も更に理解を深め、その保存育成に力を注いでいかなければならない、とは思うが、市は市として単なる助成事業としてではなく、本格的に市の事業として取組んでいただきたいと思う、などといえば、たちまち実情を知らない者が、エラそうなことをいうなと怒られるだろうが。
 
 声良鶏は高知県の「東天紅(とうてんこう)」、新潟県の「唐丸(とうまる)」と共に日本三長鳴鶏といわれているという。私達は東天紅や唐丸をいうとき、新潟県のとか、高知県の、ということになる。当然声良鶏も外の県の人たちにとっては、秋田県の声良鶏となると思う。さて佐竹知事さんはどう思っているだろう。秋田県の声良鶏としてその保存育成に是非一肌ぬいでいただきたい、といえばまたエラそうなことをいうな、と怒られか。
 
 私とこゝまで書いて、俺も勝手なことをいうもんだ、と思っていたらフト、「もう言」ととい言葉が心に浮かんだ。もう言のもうは「盲」だったかな、盲だと「めくら」となるから、今は差別語といわれて、こんな言葉は無くなっているかもしれないと思い、念のためにと辞典をさがしたら、あった。もうはもうでも「妄」だった。そこで早速、“妄言多謝“  
 かつて声良鶏を「市の鳥」として指定した頃だったろうか。市の木として「ななかまど」、市の花として「べに山桜」、この三つが市で使う封筒に印刷されていたが、いつの頃からか見えなくなってしまった。市の封筒に窓がついた頃からかもしれない。
 
 この間、病院に薬(血圧)をもらいに行った。少し時間があったので中央通りを歩いてみた。アレッと思った。花輪ばやしの屋台も十和田の乙女もいなくなっている。見落としたかと思ってもどって見たがやっぱりいない。そして畳半分くらいの大きさで黒い所がある。何かの理由で(傷んでいるとか)剥がしたのかもしれない。私にいわせれば、ちょうど幸い、復元しないで別のタイルか何にかをはってくれればいい、と思った。
 
 次いで駅前に行ってみた。例の声良鶏、反対側をよく見たら、何にか書いているようだ。声良鶏は鹿角原産などいろいろ説明が書いているようだが、古くなってすり減って?読めない感じ。私の目には白くノッペラボーに見える。白内障気があるせいかもしれない。時計の送り主はよくわかった。車輪の説明は少し長いので書いてきた。”陸中花輪駅・開業五十周年記念・蒸気機関車動輪・昭和四十八年十一月一日・機関車番号・二八六、次がよくわからなかった。多分二八六二号だろう。そしてアリッと思った。花輪線が開通したのはたしか昭和六年のはずだから、これでは数が合わない。でよく見直したら開通でなく開業だ。今度は大舘の方から見直してみたら、毛馬内〜花輪間が開通したのが大正十二年十一月一日、ということは花輪駅が出来たということだ。これだと昭和四十八年で五十年ということになり、数が合う。ヤレヤレだ。
 
 それにしてもゴチャゴチャしてすっきりしないと思ったのは、少し離れてよく見たら、これらの像や記念物の立っている足もとは、草茫々の中に何にかの花が一寸まじって、その草むらの中に小さいつつじの木や赤いバラが車輪の方にからんでいたり、そのせいだと思った。
 
 それにても、あの声良鶏の銅像は、花輪出身の有名な彫刻家のつくったものだ。移転するとすれば、チャンと行き先を考えているだろうから、いくら私が尾去沢にほしいといっても、そう簡単に、ハイ、そうですか、とはならないと思うが、でもやっぱりほしいと思う。
 
 それはそれとして、声良鶏は鹿角を原産とする秋田県を代表として、誇りを持って育てていきたい。
 
 それにしても、声良鶏は戦時中、どうして暮らしていたろうか。次第に物資がなくなり、なにもかも配給の時代になっていく。国の天然記念物だからといって、特別の配給があったわけでもないだろう。農家の人達は、田んぼを作っている。モミガラやコヌカはあったろう。彼らはどんな食べ物を食べていたかは知らないが、ヤセコケながら農家の庭でひそかに育てられていたかもしれない。軍国主義一辺倒、戦争目的達成のために何にもかも犠牲にした時代だ。篤志家が必死になって「種」を守っていたかもしれない。保存会の記録の中にそうしたことが書いてあるかもしれない。昭和十二年国の天然記念物指定と共に声良鶏の受難の時代が始まった。

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