GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

山の枯木のつぶやき(5)

山の枯木のつぶやき(5) 中央通り 相馬茂夫
 
 冬の日愛すべし − 安井吉典さんのことなど
 
 何故か話しは声良鶏からになってしまった。
 それはいつの事だったかすっかり忘れてしまったが、谷内の延命寺の住職さんであった関白明さんがまだ元気で、鹿角市の民生委員協議会の会長をされていた頃だ。何にかの会議があった後、二人で「イヤー、踏んづけそうになってあわてゝ飛びはねる」話しをした。花輪の中央通りのマンホールの蓋になっている声良鶏の話しだ。本当だよなー、あそこにはストーンサークルもあれば十和田湖の乙女もいる。花輪ばやしの屋台も、何んだか知らないが骸骨みたいなのもある。マンホールの蓋は鹿角中どこにもあるが。こうしたものを歩道に嵌めこんだのはそれなりの考えも理屈もあったろうが、口では生命の尊重を説き、足ではその大事にしなければならない生命(なんとまとめたらいゝかわからないので伝統的文化財としておく)を踏んづけて歩いている。どこかのエライ人の口調を借りると「いかがなものかと思います」ということになるのかもしれない。
 今、市ではスキーの町、駅伝の町として鹿角を売り出そうとしているようだが、そうなれば益々踏みつける人が多くなって、いくら声良鶏が代表してイタイヨウと泣いても追いつかない。なにせ声良鶏は鹿角中のマンホールの蓋になっている。
 
 その中央通りを抜けると、駅前には声良鶏の銅像がある。その立っている台の一面には「声良鶏」とあるが、あとは何んにもない。よそからきた知らない人は、何んと読む?反対側でもいゝから「こえよしどり」とでも書いて、その「いわれ」を書いてほしいと思った。そのくせその前面(駅側)には大きな鉄道の車輪があり、それにはチャンと説明がついている。この土地はJRの所有かどうかは知らないが、私達にしてみれば声良鶏が主役、声良鶏の説明が大事だといゝたいことにはなるが。
 
 今まで駅前再開発ということが何度かいわれているようだが、今度はいよいよ具体的に動きだすようだ。そうなればこの銅像はどうなるだろう。ともあれこの銅像のあるところは何にかゴチャゴチャしてすっきりしない。何にかの記念の時計も立っているようだし、あたりが駐車場になっているせいかもしれない。駅を出たらパアッと声良鶏が目に入るようにスッキリさせたい。何んといっても鹿角を原産地とする国指定の天然記念物の声良鶏だ。
 
 ところでこの声良鶏、どつちを向いて立っているだっけ、と聞くとすぐ右、左と答えられる人は少ないかもしれない、どっちだっけ、と一息ついて右、左となるだろう。あの鳥は尾去沢の方を向いている。私にいわせると「尾去沢に行きたがっている」となるわけだが……。
 
 かつて南部藩時代、田郡、元山、赤沢は、尾去沢の三沢といわれて、稼行の中心として栄えたという。元山の山神社には立派な彫刻や、直利が出る前に歌ったという鶏の額があり、その他見事な額十枚程、今では国宝級のものも多数あったと聞いている、と昭和二十五年に元山墓地を移転するときに書いた寺岡健太郎さんの文書にあり(御神体は二尺余りのトリ木でできたものとも)国宝級はともかくとして立派なものがあったのは事実だろう(この神社は正徳六年(一七一六)南部公が再興したものといわれている)。たゞこれらの物は大正十四年(一九二五)四月の大火のときに人家もろとも焼けてしまい、今は見る事ができなくなってしまったが、私はこの額の鶏は声良鶏だと思っている。元山で声良鶏を飼っていても別に不思議ではない。私の家(下タ沢)では昭和のはじめ頃(私が小学校に入る前)声良鶏を飼っていた記憶がある。
 
 元山の古い図面をみると「鶏鋪(シキ)」とか「鶏鋪前ヒ(金+通)」などというのがある。いくらチャボがバタバタ羽ばたいてがんばってみたところで、チャボはチャボだ。なんといっても堂々と胸を張ったおごそかに「オオナオリガデルゾウ」と告げるのは声良鶏でなければだめだ。
 
 私は先に駅前の声良鶏は尾去沢に行きたがっていると書いたが、本当に駅前開発でこの声良鶏をどうする、となったら、やはり是非尾去沢にいたゞきたいと思っている。
 私は前に啄木の”青垣山をめぐらせる……”という詩の詩碑をつくってマインランド(現史跡尾去沢鉱山)に建てたいと書いたことがあるが、その詩碑と対をなして(といっても並んで、という意味ではない)この声良鶏の銅像を今度は逆に五の宮の連峰(青垣山)に向い、鹿角の里を眺めながら「コッコウゴウオウ(国光郷王)」と謡って、尾去沢鉱山と啄木の詩と三位一体となって、鹿角の歴史・文化・伝説・繁栄と自然の美しさを語る象徴としたい。
 この声良鶏は別に台を作って移動出来るようにし、冬の間や雨降りなどには建家の中に入れるようにし、鳴き声を録音しておいて、ボタン(スイッチ)を押せばいつでもその貫禄のある堂々たる謡い声を聞けるようにする。また昔の鉱山のサイレンのように時間を決めて時を告げるようにするのもいゝな、などと思っている(この話し、マインランドには全然話していないが)。
 
 この間、米代新報(六月十三日)に花輪北小で市教委が「声良鶏教室」を開いた記事がのっていたが、市教委が市の鳥指定三十周年ということでやりたいといったのか、北小の校長先生がやりたいといったのに乗ったのか(どっちでもいいことだが)わからないが、とにかく子供達がふれ合い、理解を深める機会を持ったことはとてもよかったと、と思った。私達は声良鶏は鹿角原産で国の天然記念物に指定されている、くらいは知っているが、さて、いつか、となれば、さて?ということになる。保存会の阿部理事さんの説明によると、国の天然記念物に指定されたのが昭和十二年(七十五年前、一九三七)この年だけは記憶にある。七月七日、北支事変=当時はそういった=がはじまり、私達の人生が狂った年だ。駅前に銅像ができたのは昭和二十七年(六十年前、一九五二)、市の鳥に指定されたのが昭和五十七年(三十年前、一九八二)ということだった。

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