GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

山の枯木のつぶやき(4)

 またナンコかやきにもどってきたが、私のインチキ楠公論はさておいて、 今度は少し真面目な話しだ。といっても眉にツバをつけるのは自由だが、 「阿仁町史資料第五集・阿仁鉱山と友子・鉱山に生きた人々」、 これくらい長い題名がついたら、よもやインチキだとは思うまい、 ということで、その中にある「なんこ鍋」という話し。
 
「阿仁の三枚鉱山の三両沢に人捨沢というところがある。 ヨロケて働けなくなった人を捨てたといわれている。 あるとき、その捨てられたはずの鉱夫が元気になってもどってきた。 びっくりした人達が聞いてみると、放牧中の馬が沢に落ちて死んでしまった。 腹が減っていたのでその肉を食べたら元気になったという。 それ以来鉱夫達は、馬肉を食べるようになったそうである。
 当時、動物の肉を食べる習慣がなかったから、 馬肉を食べるには合理的な理由がなければならなかった。 そこで思いついたのが、方位を十二支であらわすいゝ方である。 つまり北は子であり、南は午である。 すなわち「馬は南」であるから「南向」だ、としたのである。 いさゝかこじつけたと思えるが、阿仁鉱山は南北に主要鉱山が並んでいることと無関係ではない という解釈もあるようである。」
 となれば、尾去沢の楠公論とどちらに軍配を上げるか?
 
 阿仁鉱山の発見は、天正年間(1573〜91)といわれ、金山として栄え、 寛文十年(1670)銅山となり、大沢、三枚、萱草、真木、二の又、一の又などの順に発展したという。 となれば、三枚鉱山のヨロケが捨てられたのは、一六七〇年以降と思われる。 尾去沢が銅山に代わっていくのは寛文六年(1666)頃といわれているから、 尾去沢と阿仁は金山(尾去沢は慶長四年(1599)頃)として発見されたのも、 銅山に代わっていくのも同じ頃となる。 さて楠公時代は別として、どっちが先に馬肉を食べていたろうか。

[次へ進んで下さい]  [バック]