GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

山の枯木のつぶやき(4)

 ところで話しはまた元にもどるが、 料理に「鍋」をつけるか、つけないかは、どこで線を引くのだろう。 料理に素人の私にはその区別がつかない、ながら私は考えた。 作った料理のナベをそのまま食器にして食べる(わけではないが)料理は、○○鍋、 大きい鍋に作って別の食器に移して(もりわけて)食べるのは○○料理とはいっても、ナベはつかない。 わかり易く切りタンポでいえば、ホテルや旅館などで、お膳の上に小さい鍋をかけて煮て食べるのが、 「切りタンポ鍋」で、 私達のように大きい鍋で煮て、みんなでわけて食べるのが「切りタンポ」で鍋はつかない。 わかったようなわからないような勝手な話しはこれくらいにして、要はホテルや旅館などで、 お膳の上のナベで煮るのは、本物の切りタンポではない。 あれは邪道とはいわないが、子供のママゴトだ。大体小さいナベに切りタンポ三切れくらい入れて、 チョボチョボと鶏の肉を入れて煮たところで、本物の味はでない (といえば、苦労して切りタンポの素を作っている人達におこられるだろうが)、 大きいナベにドンと煮ることが大事だ。 肉は比内鶏にこだわる必要はない(比内鶏に恨みがあるわけではないが)。 ハダシで土の上を走りまわり、コウロギやミミズを喰った鶏があれば最高だ。 切りタンポの本場をよそに取られたなどとなげく必要はない。 味で勝負だ。鹿角に行かなければ本物の切りタンポは食えない、となればしめたものだ。
 
(正直なところ私は、比内鶏も苦労して研究して作られたであろうタレッコも食べたことはないので 何にもいえないわけだし、また「ミソ付けタンポ」だろうと、「ミソ付け切りタンポ」だろうと それがいゝとか悪いとか間違っているとかいうことではなくて、 子供の頃からそういっていたという古い頭でいっているだけであって、要は名称はともあれ、 おいしい物を食べさせいたゞければいゝのであって、この元祖論なんて話しの種、 笑い話しにしていたゞけれりばそれでいゝのですが……。 昨年の十月下旬県南の方に行く機会があって、泊った旅館でミソ付けタンポ?といってあったか (長さ十二〜三センチ、平らたくのして割箸をさした)を出してくれたが、これが……、 本当のミソ付けタンポで、ショッパくてミソ味だけで、 鹿角のミソ付けタンポはやっぱりうまいと思った……聞かなかったが、これがマタギが冬山で食べた 本当のミソ付けタンポだ、ミソ付けタンポの元祖はこれだ、というかもしれない。)
 
 鹿角でも、全国の人が集まってくるイベントが毎年のようにある。 こんなときに、大きな鍋にドンと切りタンポを作って、一杯何円にするか、無償サービスにするかは別として、 本場の味を味わってもらう。 ホテルや旅館などではその方がかえって手数がかゝるというだろうが、それはそれとして、 手数をかけなければ本当の味は出ない。私達はインスタントの切りタンポを作るんではないんだ、 本場を目指すなら手数をいとはない、もてなしの心が大事だ。 本物を食べてもらえば、だまっていても本場の看板がかえってくる。 とはいっても、夏場は栽培の舞茸に頼らざるを得ないだろうが、 なんだか益々支離滅裂の理くつになってきたので止めにするが、 秋になれば舞茸でなくたってネズミ(銀茸)も出れば、サモダシも出る、それで十分だ、 ヤレヤレ、支離滅裂の頭を無理してつじつまを合わせようとするとよけいに混乱する、 こゝはよいとこ中休み。 とにかく鹿角の観光パンフレット(一種類より見ていないが)には、 さすがに「切りタンポ」とあって、「鍋」がついていなかったし、 手軽にできる体験には「ミソ付けタンポ」となっていた。 私がわけのわからない元祖論をいゝだすこともなかったわけですが、 それでもやっぱり切りタンポは秋だよナー、稔りの秋! 新米が出て、新しいキノコが出て、鶏がコロコロと太って、あのさわやかな秋風に吹かれて、 みんなで切りタンポをつくって、秋を食べようよ!
 
(鹿角で催されるイベントの話し、もっともらしいことをいっているが、 本当のところ私はこゝ何十年?とそうした催しには行っていない。 第一足がない(本当はまだ二本あるが、とうになくなってもおかしくない年だ) のでおっくうだ。だから大きいナベにどんと作る話しは、 そんなこといわれなくったってとうの昔にやっている、 見もしないで、知らない者が何いうか、と怒られるだろうが、 タンポでなくて切りタンポにミソをつけていた昔の話しだとお笑い捨て下さい。)

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