GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

山の枯木のつぶやき(2)

○響け大太鼓@
 この大直利大太鼓保存会の結成されたのは昭和五十六年(一九八一)といわれ、 その源流をたどってゆけば、元山会(元山は田郡・赤沢と共に尾去沢の三沢といわれ、 稼行の中心として栄えたが、大正十四年(一九二五)四月の大火により焼滅した) にたどりつくのではないかと思っている。 それはそれとして、鉱山地域の各集落にはみんなこの大太鼓があった。 私の生れた下タ沢にも大きいのと小さいのと二ツあり、 私達はオッキイ太鼓、チッチャイ太鼓といって稲荷さんのお祭りの時などは外に引張り出して かってにたゝいて遊んだ。 たゞ下タ沢のバチは真直な棒(杉の木、運動会のバトンのような)の先にタンポのように テルテル坊主の頭みたいにつくったものをかぶせてたゝいた。 太鼓が破れないようにということであったかもしれない。 この太鼓を何太鼓といったのか全然記憶にない。 たゞ太鼓といっていたのか、稲荷さんに置いていたので稲荷さんの太鼓といっていたのか。 からめ節に「直利出てくる……」という文句があるが、 大直利に当ると皆よろこんでナンコかやきにどぶろくで、この太鼓をたゝいて歌って踊って お祝したのかもしれない。 となれば大直利大太鼓という名称も自然に出てくると思うが。 いつ頃からそういわれていたものか、昭和四十八年三月に尾去沢公民館で 尾去沢の文化財として紹介している中に、からめ節、獅子権現舞と共に 大直利大太鼓として出ているようだが、 この保存会結成当時の人達に元山会のことも含めて、ゆっくり聞いてみたいと思っている。
 
 それはそれとして戊辰戦争のときに、この大太鼓も出陣している。 阿部恭助さん(山方の旧家阿部家の先祖、明治三十五年八十一才で死去) の書き残した「あつめ草」という日記にこんなことを書いている。 「一沢(ひとさわ。田郡・元山・赤沢・獅子沢など)に太鼓壱ツ笛鐘等持参のこと」とか 「鬨(とき)の声は眠り流しの太鼓を打ち笛を吹き先小頭声をかけ候ハヽ 同音にヤアヤアと叫び可申事」とか、 「盆踊太鼓を打笛を吹き旗(竹冠の旗・国字)を振り候ハヽその靡(なびき)に随ヒ……」 などとあるが、要するに戦さのかけ引きに用いられたものと思われる。 とにかく尾去沢の金堀り達は程んど動員されているようである (全山で六百人くらい。くわしく下ッ端の二助、三助と名前まで書いている)。 ともあれ戊辰戦争の話しではなく大太鼓の話しだが、 この中で眠り流しの太鼓を打ちとか、盆踊りの太鼓を打ち、とかいっているが、 大直利の太鼓を打ちとはいっていない、もちろん眠り流しも盆踊りも お盆の大事な行事で、それぞれ太鼓の打ち方もあったろうから、それはそれでいゝが、 その頃この太鼓の方は何んといっていたゞろうか。
 
 盆踊りは今もやられているからわかるが、眠り流しとなるとどんな事をしていたのか さっぱり記憶がない。 たゞ子供の頃ボンヤリと眠り流しか盆踊りかわからないが、田郡の太鼓と元山の太鼓が 境のところで会うと(両方からたゝいていったのだろう)、 ケンカしたものだと聞いたことがあるような気がする。 ケンカといってもそれなりのやり方とか、暗黙のルールのようなものがあったと思うが、 この眠り流しの行事が、今のお盆の先祖供養の行事に受け継がれているのではないかと思っている。 (そのことも聞いてみたい)
 
 とにかく盆踊りは盛大だった、といっても私の頭の中にはなんにもないので、 市街地にいた内田仙一さん(故人、下新田出身)の小学生の頃を思い出して書いたものを 借りることにする。
 
 「二年生のとき(昭和四年、相馬註)、田郡・上新田の社宅が解体となり、 同級生の過半数が中沢・赤沢・城山等に移転し、田郡地区過疎の第一号が行われた年で……」 (今は山かげ地区に社宅(長屋)のあったことなど知っている人はいないだろうと 思ってこのことを入れた。下タ沢にもあった。)
 「もう一つ忘れられない一つに田郡の盆踊りがある。 校庭の真中に大きな鍋を置き、それには馬肉が一杯、 酒は樽のまゝ、それを柄杓で飲み、馬肉を食べながら焚火のあかりで夜の明けるまで踊るのを 校庭の片すみで見た印象、当時は今のように娯楽施設もなく、 年に一度の盆踊りには全力を傾注したせいか、踊りにも迫力があったように思う。 盆踊りの様子はわかっているが、どうして帰ったかさっぱりわからない。 半分眠りながら帰ってきたせいであろう。」
 
 こうした馬肉カヤキの盆踊りは、鉱山地区ではどこでも盛大にくり広げられたであろう。 今、田郡の学校の事がでてきたので、私も六年生まで通ったのでなつかしく、 内田さんの話しをもう少し続けてみよう。 (これからの思い出は、昭和四十七年閉校のとき作った三ツ矢沢学校史から)
 
 「夏期間の通学は大したこともなかったが、冬期ともなればなかなか大変で、 長靴の上を雪が入らないように縄で結び、腰まである雪を交代でかきわけ (これは上級生がやってくれ、下級生は一番最後になり、おくれないように顔を真赤にして 鼻の頭に汗をかいて頑張るのだが、だんだんおくれて、 ひと朝に五、六回は早くこいとどなられながらの通学であった)ながら一時間もかかり、 腰から下はびしょぬれ状態で、学校につくのは大てい遅刻なので、乾かす間もなく、 そのまゝ湯気を立てながら授業を受けたので、 一時間目はいつも気分そう快とはいかなかった。」
 
 山かげの学校は明治七年(一八七四)元山にはじまり、 明治四十一年田郡に移り、昭和二十七年三ツ矢沢(中新田)に移転した。 横道ついでに戦中戦後に少しふれてみる。
 
 ”戦中”「ランドセルといえば竹を編んだもので、三ケ月もたゝないうちに バラバラになってしまったなど、今だに記憶に残っております。 靴という靴はなく、冬はカラ靴(素足ではくこと)をはいた。 雪の多い日などは足は冷たく、泣く思いをしたことがあった。 夏は下駄だけであったので、石ころ道で下駄の消耗も早く、途中で割れる事もしばしばであった。 又雨の日は、下駄の鼻おが切れ、つまさきで歩き(はだしになり爪先立ちで)、 足が痛いので馬糞に上を渡って歩いたものだ。 馬糞はスポンジのように柔かく気持のよいものでした。……」
 
 当時三ツ矢沢の方では、馬をたくさんかっており、馬産地としても知られていた。 こうして田郡の学校は、老朽のため危険ということで、昭和二十六年十月解体開始 (新校舎は三ツ矢沢(中新田)に新築と決定)、子供達は中新田などの仮教室(馬小屋など) に移ることとなった。 子供は皆んな荷物運びをした。オルガンを運ぶのには苦労したという。 なにせ学校を出るとすぐ急な下り坂で、途中に一の坂(よろけ坂より長い)という難所もあり、 しかも石ころ道、馬車も使えなかった。
 
 「私達の教室は馬小屋のため馬糞がたくさん付着して、とてもきたないものでした。 川上ヒデ先生の指導のもとで、馬糞落しがはじまりましたが、 馬糞は乾燥しているためなかなかとれなかった。 わらのタワシでこすっているうちにとけて赤茶色の水となり、 背伸びしてやっていると腕をつたって腹まで流れ、 はしゃぎまわったことが思い出されてなりません……」
 
 新校舎は翌二十七年三月落成、馬小屋から解放された子供達はどんなに嬉しかったろうか……。 少しばかりの掃除したからと言っても、周囲の板には馬糞がついているものの、 異様なにおいがするもの、最初のうちは、勉強どころか、毎日毎日が大騒動の連続であった……。 こうして昭和三十一年独立校となり、”山鳴りの静むふところ……” 山々に四季を色どり……、”集いきて組む腕かたく”……と校歌を歌って昭和四十五年 尾去沢小学校と統合、三ツ矢沢校舎と称し昭和四十七年上山の新校舎落成と共に廃校、 子供達は新しく城山にできた三ツ矢沢寮に親元を離れて 一年生から中学生まで全員寮生活に入ってゆく。
 − こうして山かげの子供達は真直ぐに力強く生きていった。 − 

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