GLN「鹿角篤志人脈」:相馬茂夫

山の枯木のつぶやき(1)

 さて、金山ソーランも大事なお祭りのイベントとして定着してきたと思います。 お祭りは子供が主役とよくいゝますが、これがなければ山神さんのお祭りも 今一歩盛り上りに欠けると思います。 尾去沢のお祭りに新しい主役が登上した、 そんなことを思って一人でよろこんでおります。
 
 私はいつも子供達にふる里の楽しい思い出をいっぱい持たせたい、 つくって上げたいと思っております。 それは只与えられるものではなく、参加することによってより深まっていくものだとも思います。 先にも書きましたが私は戦後三年間シベリアで暮らしてきた、ふる里に帰りたい、 その一心で命をつないで帰って来た。 私の生まれた下タ沢(史跡尾去沢の山かげ)は本当の谷間で十二・三軒の家が 谷間にへばりついている何んにもないところだけれども、親弟妹がいる、 一所に遊んだ友達がいる、私にとっては絶対に帰って来たいふる里であった。 今の子供達は将来どこでどういう生活を送るようになるかわからないけれども 帰って来たいと思うふる里でありたい、かえって来たいと思うふる里をつくって上げたい、 そう思います。
 
 ”祭りだワッショイ”パレードに大人もおみこしと一緒に頑張っている。 その姿を見たときにこの人達も年をとったナー、”ワッショイ、五十年か”と思った。 かつて自分の子供達と一緒にワッショイと頑張っていた若い人達もいつの間にか髪もうすくなり 白髪もまじって孫の時代になった、 お祭りとは伝統とは誰が受け継いでゆくのかと思いながら……
 
 五十年といえば新堀の子供会では毎年初詣でに来る人の為に暮の三十一日に山神社の 参道の道つけをしてくれている。今年は神社の前の屋根から落ちた雪も片付けてもらった。 長いこと続けていることはわかっているがいつ頃からか私にはわからない。 私がPTA会長のときからだととか、私が何年生のときからだとかおぼえている人は 是非教えていたゞきたいと思います。
 
 何んといっても五十年といえば半世紀、今では尾去沢の社会的行事としてすっかり定着している 元朝の五十枚登頂も今年は五十回目、私たちは「元朝五十枚登頂五十回記念」と書いた 横断幕を作って登りました。尾去沢を語る会の有志は 日の丸の旗に上部に「祝・五十枚登頂五十回」左と右に「ふる里に誇りを持ち」 「ふる里を大事にしよう」と書いた旗を持って登りました。 そしてこの横断幕には次のような文句も書きました。 「厳冬の闇を衝いて登る熱き心を次の五十年につないで行こう」 「平成二十一年元旦・五十枚登頂萬歳」。 厳しさに負けない。苦しさに負けない。その心意気を次の世代に伝えていきたい。 そんな思いを強めた五十回目の登頂でした。
 
 話しは変わるが、瓜畑の出口(入口)の土手に鹿角市青年会が建てた 「菅江真澄の道・追っ子坂(おっこざか)」という標柱が毎年除雪に押し倒されていましたが、 今年はとうとう下の川に落ちてしまいました。 雪解けを待って斉藤新一さんの家の向いに文化財保存会の柳舘会長さんが会員に 手伝ってもらって建直しました。 追っ子坂の話は尾去沢に伝わる唯一の民話といえるのかもしれません。
 今年もまた この会の活動の時期になって来ましたが、会員の老齢化と共に難儀になって来ました。 尾去沢の歴史を顕彰する標柱を建てたり、その維持管理をするのも大事な活動の一つですが、 尾去沢の歴史に関心のある方はぜひ加入していたゞきたいものと思います。

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