下タ沢会によせて(覚書)

附2 尾去沢小学校校歌の周辺

 尾去沢小学校校歌の周辺(2)

(前回、「川上栄太郎先生が知っているかもしれない。」と思った、で終ってしま いましたが。)
 それは、百周年の祝賀会の最後に全員で校歌を歌おう、となったとき、「音楽の事 なら俺にまかせておけ」と壇上にかけ上って指揮棒を振ったことを思い出した。川 上先生は、音楽が得意だったんだと思った。その頃は退職されて大館の方におられ たので、三ツ矢沢の人に住所を聞いて、或日尋ねて行った(昭和五十九年九月二十 四日)。
 
 「先生方に払う謝礼は鉱山の方で援助してくれただろう。」ということでしたが、 外のいきさつなどはよく分らなかった。が、鉱山と学校との関係を考えると、それ は当然あり得ることだろうと思った。
 そのうち奥さんが一杯出してくれたので、ゴキゲンになって帰ってきたわけです が、そうしたわの中で、「今の子供ならなんでもないが、当時の子供達は音感?が 悪くて出だしの「ヤーマー」のところがうまく歌えなくて、鎌田先生(音楽の先生) と二人で教えるのに苦労したものだ。」と。
 そのうち小学校の話しから、中学校の話しになって、「尾中の校歌は、尾去沢小 学校の校歌と花輪女学校(現花輪高校)の校歌が下じきになっている。作詞者の高 田瑞穂先生は有名ななんとかいう俳人のご子息で、何んとかいう大学の教授とかで、 作曲者の池内友次郎先生の事も聞きましたが、みんな忘れてしましました。たゞ五 〜六年前であったかろうか、尾中の文化祭で何年生かゞ作曲者の池内先生のことを 調べたり、手紙を出したり、いたゞいた返事なども廊下に張り出していたことがあ ったので、大事な記録だと思って写したような気もするが、うまく入らなくて止め にしてしまったような気もして定かでなくなりましたが。」
 
 私はいつも思うのですが、尾中では毎年三月「学舎のうち」という生徒会誌を出 しており、その巻頭に必ず校歌が載っている。が、その裏は白紙なので(最近は校 訓が載っているようですが)、作詩・作曲者の名前と略歴を載せておいてくれたらナ ーと思う。子供達は学校に通っているうちは名前くらいは覚えていても、日が経つ につれて、自分達の校歌をつくってくれた人はどんな人なのか、名前さえおぼつか なくなってしまうのではないだろうか。
 
 私が中学校の校歌をはじめて聞いたのは、娘の入学式(昭和四十五年)のときだ った。ご存知のように「鉱山の煙は高く空を行く希望のごとし」ではじまる。それ を聞いて私は、さて困った、と思った。製錬が廃止され、あの煙突から出なくなっ て四年程になる、空を行く希望の象徴が消えてしまった。それからこの校歌を聞く 度にいつも思う、さて何んとしよう、と。
 かといって、変にいじくると、例えば「鉱山の煙は高く」を「鉱山の歴史は古く」 にしてみたところで、空を行く希望にはつながらないし、部分的にいじくると、校 歌全体の構成がおかしくなるだろう、第一作詞者が承諾するかどうか。いっそのこ と秋田県民歌のように新しい校歌をつくったらどうか、となれば煙を見て育った世 代には抵抗があるだろうし、やはり古い校歌を歌うだろう。案外今の子供達はな んの抵抗もなく歴史の一環としての認識の中で歌っているのかもしれない。が、い つかあの煙突は倒れるだろう、その時はどうなるだろう……。
 私がなんで「煙」にこだわるかといえば、製錬の廃止(昭和四十一年三月十九日) が決まり、明日熔鉱炉の火が落されるという前日の十八日、仕事が終ってから五〜 六人の仲間をさそって、採鉱事務所の向いの小高い丘の上で、冷酒をくんで、消え 行く煙に最後のお別れの乾杯をした。残雪の五十枚を吹きおろしてくる三月の風は、 肌をさすように冷たかった。そうした思い出があるだけに、外の人より煙に対する 思い入れが深いのかもしれない。
 
 ともあれ尾中の校歌云々は私がとやかくいう立場でもないし、筋合いでもないの で、それはそれとして、たゞ今ならまだ校歌制定の頃のことを知っている人もいる と思うので、自責の念もこめて、今のうちに、校訓のことも含めて、当時のいきさ つを調べておいたらいゝのでは、と思ったりしている(すでにあるのかもしれませ んが、)。

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