− 付 尾中ブラバン事始、それは昭和十二年のことでした − 中央通り 相馬茂夫 (新しい年、参道には赤、緑、黄色の蛍光灯が雪に映えます。五十枚には、二十世 紀最後の初日の出を迎えに行きます。) 尾去沢小学校の百周年記念行事は、昭和四十八年十二月十日に準備委員会を開き、 委員長、副委員長のもとに総務部、事業部、記念誌編集部、式典部といった役割分 担を決め、事務局長は黒川教頭先生ということで事業に取組みました。私の属した のは記念誌編集部でしたが、柳沢弘志先生が中心になって資料を集め、編集の仕事 を進めました。 以来二十五年、私達は委員長、副委員長を中心に各部の部長、副部長、趣旨に賛 同する部員の方々で、年一回創立記念日を目やすにしながら、学校との絆を大事に し、またいつかお役にたつこともあるだろうと、当時を偲びながら校長先生外諸先 生、PTAの役員の方々、また退職された尾去沢在住の校長、教頭先生にもご参加を お願いし、学校を訪問などして交流会を続けてきました。 百二十年のときには、裏門の門柱(昭和四十七年現在地に新築移転したときに立 てた)が老朽化して危険になったので、立て替えることにし、資材の準備の都合も あったので、翌年秋の交流会のとき門標も新しくして(向って右側尾去沢小学校、 左側尾去沢第二保育園)立て替えました。 今年は百二十五年の交流会にあわせて、門柱の塗り替えをしました。門標は第二 保育園が尾去沢保育園にかわることもあって、新学期の始まる前に新しくしました。 門柱の塗りかえに続いて、裏門からの通学路の桜が植えられて以来手を入れられ た事はなく、テングス病に覆われているので、可能な範囲でその枝を切り落し、途 中にある大きな桐の木も一本、枯れていつ倒れるか危険なので切り倒しました。何 分にも平均年齢七十を越えている私達なので一気にはできず、半日づつ二日かゝり ました。切り落した枝が一部未整理のところもあるので、来春雪が消えたら片付け たいと思っております。 話しは横道にそれましたが、その頃(昭和四十九年)私は鉱山の保安事務所 の仕事もしていましたので、「保安ニュース」というのを書いていました。当時鉱 山は非常な苦境の中にありましたので、子供達は元気で頑張っている、我々も負け ないで頑張ってこの苦境を乗り切ろう、ということで二月に、「若い力は躍動する − 小中学生の活躍を中心に − 」という見出しで次のようなことを書いておりま す。 「ある日小学校の校長先生が「うちの今年は三冠王だよとよその先生にいわれる んだ」とニコニコしていた。”夏、都市対抗少年野球大会優勝。秋、陸上競技女子 走り巾跳優勝。冬、スキー大会男子大回転優勝。 中学校は秋の新人戦で女子バレーが初めて全県優勝をした。……略……スキー大 会にふれて、飛躍、一、二、三、四、六位、複合、一、二、三位、回転、一、四、 六位、大回転、二、四、六位。……」 (今の子供達は小学校の校庭から中学校の校庭につながる斜面にジャンプ台があっ たことなど知らないかもしれない。いつかのテレビに、校庭にジャンプ台のある学 校として紹介されたこともあったが。ブラバンのことにもふれ、”東北大会での優 勝準優勝は十指をこえ、名門校として王者の貫禄を示している……”、そして次の ようなことを書いていた。) 「小学校は今年は創立百周年、九月には記念式典を挙げる。百年の歴史を綴る仕 事もはじまっている。学校の百年は、裏をかえせば鉱山と盛衰を共にした百年であ り、鉱山の百年の流れでもある。 ”山なぞへ空は青し”、名も知られない山の中の小さな学校、その校歌が作詩北 原白秋、作曲山田耕筰。当代日本の第一流の詩人と作曲家である。日本中どこの学 校がこういう校歌を持っているだろうか。それがどうしてできたのか、そのカギを 握っているのが鉱山なのかもしれない。」 |